読書:「諦める力」 為末大

元陸上銅メダリストの為末大。

前から気になっていた本で評判もよく、
やっと読めたので書きとめておきたい要点を。

やっぱりスポーツ選手など、
ある一定の一流を極めた人たちは、
おのずとその人の軸や考え方もしっかりすわっている。

それに加えてこの人はよく本を読んでいることがわかる。
普遍的なことが随所に出てくるから。

 

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はじめに

「諦める」という言葉について、みなさんはどのような印象を持っているだろうか。

「スポーツ選手になるのを諦めた」
「夢を諦めた」

いずれも後ろ向きでネガティブなイメージである。
辞書を引くと、「諦める」とは「見込みがない、仕方がないと思って断念する」という意味だと書いてある。しかし、「諦める」には別の意味があることを、あるお寺の住職との対談で知った。

「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。
仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。

そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびやかにする」という意味が記されていた。さらに漢和辞典をひもとくと「諦」には「さとり」の意味もあるという。

こうした本来の意味を知ったうえで「諦める」という言葉をあらためて見つめ直すと、こんなイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」

諦めるということはそこで「終わる」とか「逃げる」ということではない。

 

本章

戦略とはトレードオフである。つまり、諦めとセットで考えるべきだ。だめなものはだめ、無理なものは無理。そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かして勝つかということを見極める。勝つためには、最初から負けるフィールドを選ばないことが重要なのだ。

こういうことを言うと、「じゃあ、別のフィールドに移ろう」と安易に流れてくる人も出てくる。さしたる努力もせずに移動を繰り返すのは、諦めていいということを何もしなくていいことだと解釈しているからだ。「諦めてもいい」が、「そのままでいい」にすり替わっている。

僕が言いたいのは、あくまでも「手段は諦めていいけれども、目的を諦めてはいけない」ということである。言い換えれば、踏ん張ったら勝てる領域を見つけることである。踏ん張って一番になれる可能性のあるところでしか戦わない。負ける戦いはしない代わりに、一番になる戦いはやめないということだ。「どうせ私はだめだから」と、勝負をする前から努力することまで放棄するのは、単なる「逃げ」である。

 

「もう少しで成功するから、諦めずにがんばろう」
「せっかくここまでやったんだから、諦めずにがんばろう」

前者は、この先成功しそうだという「未来」を見ている。後者は、今までこれだけやってきたという「過去」を見ている。同じ「やめる」という判断でも、どちらのロジックが背後にあるかで、まるで異なる結果をもたらすだろう。未来にひもづけられているのは「希望」である。ところが、この「希望」と「願望」を混同している人があまりにも多い。

 

自分の人生の横に走っている「別の人生」の存在を日ごろから意識しておく。人には、自分が今歩いている道の横に、並行して走っている人生が必ずある。人生のなかにいろいろな可能性があったはずだ。

さらに言えば、今自分が走っている人生とその横に走っているいくつかの人生は、俯瞰してみれば、同じゴールにつながる別のルートである可能性もある。直接的にゴールに向かう最短ルートもあれば、少し回り道かもしれないが、確実にゴールに到達するルートだってある。このことを意識するだけで、何かをやめたり、諦めたりすることに積極的な意味を感じ取ることができるだろう。

「これをやめたら自分ではなくなってしまう」「この道が唯一の道」「この道が閉ざされると、すべてが終わりになってしまう」、といった追い込まれた状況に陥らずにすむ。自分が今走っているこの道がどこにつながっているのかを考えてみることによって、選択肢が広がるのは確かなのだ。

 

やめること、諦めることを「逃げること」と同義に扱う傾向は、日本の社会においてとくに強いものだと感じる。僕は「やめる」「諦める」という言葉を、まったく違う言葉で言い換えられないかと思っている。たとえば「選び直す」「修正する」といった前向きな言葉だ。そうすれば、多くの人にとって「やめる」「諦める」という選択肢、がもっとリアルに感じられるのではないだろうか。日本では「やめる」「諦める」という行動の背後に、自分の能力が足りなかったという負い目や後ろめたさや敗北感を強く持ちすぎるような気がする。「自分には合わなかった」、本質的には、ただそれだけのことではないだろうか。自分が成功しなかったのは、その分野に合わなかっただけだ。ほかに合うフィールドがあるかもしれないから、諦めて、やめて、移動するのだ。「これは私に合わなかったけど、合うところに行けばもっともっと成長できるかもしれないし、もっと高みに行けるかもしれない」、こうした発想がもっと広がればいいと思っている。

 

正直なところ、やめたことが正解かどうかということは、その瞬間はまったくわからないものだ。何が失敗で、何が成功で、何がいいやめ方で、何が悪いやめ方か。これはどういう時間軸で見るかによって異なってくる。だからこそ、自分のなかで「納得感」を持って終わるしかないと思う。

 

新たな一歩を踏み出すためには環境を変えるのが手っ取り早い。そう思うようになったのは、自分にとってまったく普通ではないことが、誰かにとってはまるで当たり前のことであると気づいたからだ。何を「普通」ととらえるかで人生は相当に変わる。

僕は世界一を意識するのが遅すぎた。日本一を目指すのと世界一を目指すのとでは、最初からやるべきことがまったく違っていて、しかも競技人生は十数年しかない。技術論、戦略論といったものは、何を普通としている集団に属しているかで変わってくる。

人は場に染まる。天才をのぞき、普通の人がトップレベルにいくにはトップレベルにたくさん触れることで、そこで常識とされることに自分が染まってしまうのが一番早い。人はすごいことをやって引き上げられるというより、「こんなの普通でしょ」と思うレベルの底上げによって引き上げられると思う。今までいた場所で、今までいっしょにいた人たちと会いながら、今までの自分ではない存在になろうとすることはとても難しい。

 

どんな分野においても「あの人はすごい」と言われるような人は、無意識と意識のバランスが普通の人に比べて格段にいいように見える。勘にゆだねるときはゆだね、論理的に詰めるときは詰める。無意識にその塩梅を判断しているところが「すごく」見えるのだ。能力は生まれつきの部分があるが、「勘」は経験によってしか磨かれない。だから多様な経験、とくに頭で考えてもどうにもならない極限の経験をしている人のほうが、ここぞというときに強いのではないだろうか。

 

「勝っている状態」を定義する。合コンを例に考えてみよう。合コンに参加する男性は、たいがいその場でモテるかモテないかを気にする。しかし、今後のことも含めてトータルで考えた場合、その場でモテることより、一人の女性と長期的につきあうことのほうが「勝ち」と考えることもできる。どこまで引いて俯瞰で考えるか。どこまで大きく勝ち負けをとらえるか。このことによって、日常の勝ち負けに基準も変わってくる。そう考えると「どこで勝つか」より「何が勝ちか」をはっきりさせておくことが、自分が勝ちたいフィールドでの勝利につながるのだ。

それがわかっていないと、目の前のランキングを過剰に意識してしまう。そもそも、あらゆるランキングは自分以外の誰かが設定したものである。つまり、自分ではない誰かが「こうしたら勝ちだと認めよう」と言っているに過ぎない。

日本人は、金メダルやノーベル賞といった既存のランキングを非常に好む。これは他者評価を重んじる、日本人の気質をよく表わしていると思う。それはそれで目指してもいいとは思うけれど、多くの日本人は、あまりにも人から選ばれようとしすぎてはいないか。人に受け入れてほしいと思いすぎていないか。人から選ばれようとすることは、誰かが設定したランキングからずっと抜け出せないことを意味する。他者評価を求めすぎることは、権威のあるランキングに振り回されることになる。自分なりのランキングを持つということは、他者評価自体を客観的に見ることにほかならない。

 

積む努力、選ぶ努力。言い換えれば、努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということだ。積み重ねる努力と違って、「何をがんばるか」という選ぶ努力には、冷静に自分を見てだめなものはだめと切り捨てる作業がいる。これは、精神的にかなりつらい。が、積み重ねるほうにだけ必死になっていて、選ぶ努力を怠った結果、空回りしている人も多い。結局、「選ぶ」ことを人まかせにしてしまうと、自分にツケが回ってくる。

 

努力なしに成功を手にすることはできない。しかし、人によって努力が喜びに感じられる場所と、努力が苦痛にしか感じられない場所がある。苦痛のなかで努力しているときは「がんばった」という感覚が強くなる。それが心の支えにもなる。ただ、がんばったという満足感と成果とは別物だ。さほどかんばらなくてもできてしまうことは何か。今まで以上にがんばっているのにできなくなったのはなぜか。そういうことを折に触れて自分に問うことで、何かをやめたり、変えたりするタイミングというのはおのずとわかってくるものだと思う。

 

本当のところを言えば、終わり際については誰もがそれなりに察していると思う。しかし、周囲から「ここで諦めたらもったいないよ」「うまくいっているし、みんなも喜んでいるのになんでやめるの?」という声が聞こえてくると、自分の感覚のほうが間違っているような気がしてくる。「自分はこのくらいの者だ」という感覚が洗練されていないと、たまたまうまくいっていることや、たまたまうまくいっていないことが「すべて」だと思ってしまう。世の中の評価は移ろいやすく、褒めてくれていた人が手のひらを返したように冷たくなったり、貶めていた人がいつのまにか持ち上げてくれたりと、自分ではコントロールできない。だからこそ、自分の中に軸を持つことが大事なのだ。

 

何でもかんでも手当たりしだいに手に入れることで、幸福が得られるわけではない。むしろ、ある段階がきたら「もうこれはいらない」と手放していくことで、幸福が近づいてくるのではないだろうか。仕事も諦めない、家庭も諦めない、自分らしさも諦めない。なぜなら幸せになりたいから。でも、こうしたスタンスがかえって幸せを遠ざける原因に見えてしまう。むしろなにか一つだけ諦めないことをしっかりと決めて、残りのことはどっちでもいいやと割り切ったほうが、幸福感を実感できるような気がする。

あれも、これも手に入れたいという発想の行き着く先は、つねに「できていない」「足りていない」という不満になってしまう。現代は生き方、働き方も多様な選択肢がある時代だ。それはとてもいいことだが、すべてを選べるということではない。確かに、多様な選択肢を持つことにはメリットもある。ただ、一方では選択肢がありすぎて選べないデメリットもある。それを考えると、メリットばかりを強調することは、自分の軸を見誤らせる危険性を高めていく。

 

「それをやったら何の得になるんですか」。最近の若い人はよくこんな問いかけをしてくる。「やめてはいけない」こと「やらなければならないこと」でがんじがらめにされている気がする。「それをやったらこんないいことがある」と言うのではなく、「そんなことしても得にはならないよ」と言う「優しさ」もあると思う。「得にならなくても楽しいからやりたいな」という感覚をたくさん味わうことが、自分の軸をつくっていくことにつながる。「やめてもいいんだよ」「やっても得にはならないよ」と言われても、意に介さずやる人に共通しているのは、他人に評価してもらわなくても幸福感が得られているということだろう。

 

世の中は不平等である。過去は変えられない。未来のこともわからない。まずは現実を直視することだ。組織が悪い、社会が悪いと責めるのはいいけれど、その間も人間は生きていかなければならない。「世の中」という誰かがいるわけではなく、私たち一人一人がすでに世の中の一部なのだ。世の中はただそこに存在している。それをどう認識して行動するかは自分の自由で、その選択の積み重ねが人生である。なんてひどい社会なんだ。そう嘆きながら立ち止まっているだけの人生もある。日々淡々と自分のできることをやっていく人生もある。選ぶのは自分だ。

 

モノをたくさん持つことが豊かさだという時代は過去のものになりつつある。モノに縛られないことの豊かさや幸福感というものに、多くの人が気づき始めているのではないか。「ほどほど」や「そこそこ」を目指す気持ちは、「縛られたくない」という感覚ともつながるのかもしれない。

僕は昔から、人間関係を整理するとか、モノを整理して捨てるとか、かかっている費用を圧縮するということを定期的にやっている。捨てることで小さくなったり、軽くなったり、安くなったりするのが好きなのだ。しかも、モノを捨てて小さくなることで、選択肢が広がるような気になっていく。「ああ、これがなくても生きていける」「この程度しかかからないのなら、仕事をやめてもしばらくは大丈夫だ」そういう気分だ。いつでも舞台から降りられるという開放感が生まれる。

やらなくてもいいことはやらない、つき合わなくてもいい人とはつき合わない。そう割り切ると、思いもしなかった自由さが手に入った。僕たちは生きていかなければならない。生きていくためのサイズを小さくしておけば、やらなければならないことが減っていく。何かをやめることも、何かを変えることも容易になっていくのだ。モノを捨てる習慣というのは「本当に大事なものは何なのか?」ということを確認する機会なのだ。人が不安になるのは「これがなくなったら大変だ」と思うからだ。不安の種になりそうなものをあらかじめ捨てておくと、不安から自由になれる。

 

どんな競技でも、スポーツをやっていれば「天才」に出会う。がんばれば夢はかなうと信じてがんばっていた僕も、どうにもならないような圧倒的な才能を目の前にして、自分の才能のなさを呪ったことがある。しかし、僕はすぐに考えた。「ああ、これはそもそもぜんぜんモノが違う。じゃあ、僕にできることはいったい何なんだろうか」。スポーツをやっていると本物に出会ったとき、自分の限界をはっきりと知ることできる。本物と自分のどうにもならない「差」を認めたうえで、今の自分に何ができるのかということを考えるきっかけをもらえる。

「才能じゃない、努力が大事なんだ」。一見すると勇気づけられるこの言葉が、ある段階を過ぎると残酷な響きになってくる。この言葉は「すべてのことが努力でどうにかなる」という意味合いを含んでいて、諦めることを許さないところがある。挫折することも許されず、次の人生に踏み出すことのできない人を数多く生み出している。

「仕方がない」。僕は、この言葉に対して、もう少しポジティブになってもいいような気がする。「仕方がない」で終わるのではなく、「仕方がある」ことに自分の気持ちを向けるために、あえて「仕方がない」ことを直視するのだ。人生にはどれだけがんばっても「仕方がない」ことがある。でも、「仕方がある」こともいくらでも残っている。努力でどうにもならないことは確実にあって、しかしどうにもならないことがあると気づくことで「仕方がある」ことも存在すると気づくが財産になると思う。

 

おわりに

今いるところが最高で、そこから下がればマイナスと考えると、現状にしがみつくことになる。それは結果的に行動や思考を萎縮させることにつながる。今を守ろうとして今も守れないという状況だ。成功という執着や今という執着から離れることで、人生が軽やかになる。

たかが人生、されど人生である。人生が重すぎるのであれば、置き換えてもいい。「たかが仕事じゃないか」「たかが就活じゃないか」。そんな気持ちでいられれば、結果を気にして萎縮することなく、全力を出すことができるのだ。意味と勝ちが過剰に求められている現代だからこそ「たかが」「あえて」というスタンスで臨むほうが生きやすいのではないだろうか。

僕は人生において「ベストな選択」なんていうものはなくて、あるのは「ベターな選択」だけだと思う。誰が見ても「ベスト」と思われる選択肢がどこかにあるわけではなく、他と比べて自分により合う「ベター」なものを選び続けていくうちに「これでいいのだ」という納得感が生まれてくるものだと思う。

何が自分に合うか合わないかを理解するには、一定の経験が必要だ。「夢はかなう」「可能性は無限だ」こういう考え方を完全に否定するつもりはないけれど、だめなものはだめ、というもの一つの優しさである。自分は、どこまでいっても自分にしかなれないのである。それに気づくと、やがて自分に合うものが見えてくる。

続けること、やめないことも尊いことではあるが、それ自体が目的になってしまうと、自分というかぎりある存在の可能性を狭める結果にもなる。前向きに、諦める。そんな心の持ちようもあるのだ。

諦める力 為末大

営業4ステップ part.2

◎営業4ステップ

ステップ1. 集客
情報を提供して興味のある人を集める

ステップ2. 見込客フォロー
追加情報をシャワーのように提供する

ステップ3. 販売・見極め
コンタクトがあった段階で商談をセッティング

ステップ4. ファン化
顧客に対して定期的なサポートを続ける

ポイント1.
情報を十分に提供しないうちは商談に入らない

ポイント2.
お客様が求める情報は惜しみなく提供する

 

◎ニーズの全容を理解する4つのポイント

ポイント1. 問題
現在抱えている問題点 (~で困っている)

ポイント2. ニーズ
求めている具体的な欲求 (~したい ~が欲しい)

ポイント3. ゴール
最終的に達成したいこと (そうなるのが望ましい)

ポイント4. 背景
現状を招いた理由・環境 (なぜそうなったのか?)

 

購入プロセスと分析の視点

◎購入プロセスと分析の視点

《認知》
・どのくらいの人が自社のブランド、商品について知っているか
・特にターゲット層における認知率
・どういった媒体、きっかけで知ったか

(ターゲット層における)認知率
認知媒体

 

《興味関心》
・知っている人のうち、実際に何らかの興味関心を持っている人がどのくらいいるか
・ポジティブなイメージを持っている人はどのくらいいるか

(認知している人における)好意を持っている人の率

 

《理解》
・自社が想定している提供価値や特徴、ブランドのイメージなどが、どのくらい消費者やターゲット層に正確に理解されているか
・その上で、欲しいと思っている人がどのくらいいるか

商品やブランドに対するイメージや特徴の想起と自社の意図とのズレ
購入意向率

 

《来店》
・実際に来店しているのはどのくらいの人か
・どういった層の人が来店しているのか
・どのくらいの頻度で来店しているか
・どういったシチュエーションで、何を目的に来店しているか

認知者に占める来店率
来店頻度
来店タイミング
来店時の同行者
来店目的

 

《購入》
・実際購入しているのはどういった層か
・来店して実際に購入にいたる確率はどの程度か
・何を基準に購入を決定しているのか
・単価、一度に購入する商品の点数、購入の頻度はどの程度か
・購入頻度の増減はどうなっているか

来店者における購入率
購入決定基準
単価、購入点数
購入頻度
購入タイミング
ロイヤリティ

 

《リピート》
・購入後の満足度はどの程度か
・リピート率はどの程度か
・どういった層がリピート購入しているのか それはなぜか
・リピートしていない理由はなにか
・どういった層がリピートしていないのか

満足度・不満足度とその理由
リピート率
リピートしない理由

 

読書:「愚者が訊く」 倉本聰

「北の国から」の倉本聰さん。

たまたまテレビで、
倉本聰さんの対談集の書籍が紹介されていて。

倉本聰2

それがこの本。

「愚者が訊く」 / 倉本聰

内容紹介を引用すると、

北海道・富良野の豊かな自然の中で環境教育活動を行なっている脚本家・倉本聰が、自然のあり方、ヒトの行く末、日本の未来について、
一流の専門家たちに恥も外聞も捨て、愚者として初歩的な質問をどんどん問いかける対談集。「誇りを捨てなかったら得られなかった」―― 珠玉の知識に溢れた一冊。対談相手はジャーナリスト・池上彰氏、ベストセラー『原発のウソ』の京大助教・小出裕章氏、地球惑星科学者で東大名誉教授・松井孝典氏など7人。

 

原発問題、政治、宇宙、昆虫などなど、
あらゆる分野の超賢人たちとの対談集。

飽きなかった。
知らないことばかりだった。

この本を読むと、
あまりにも自分が無知だということを痛感させられた。

もちろん、科学や経済など、
興味のあるなしの分野もあるだろうけれど、

原発のことなど、日本人として、
原発の歴史を知らなさ過ぎるということがよくわかった。

テレビやネットのニュースでは、
決して得ることのできない情報や知識がそこにあった。

それは裏情報とかマル秘という意味ではなく、
知っておかないといけないことを知らない。

今のメディアのニュースが
どれだけ瞬間的で浅いか、ということ。

 

どうなった、ああなった、何を言った、何をした、、、
今起きていることを実況しているだけ。

そしてどの媒体も同じことばかり。
取り上げることも、言っていることも。

そもそも?
なぜ?

そんな経緯や背景を全く伝えないで、
いい 悪い を問う。

あー、そんな国民の一人なんだな、と
自分を情けなくも思う。

無知すぎて、
そもそも自分が持っている情報や知識だけで、
「良い」「悪い」なんて言えない。

それがわかった。

だから日本人は、世論調査でも、
「良い」「悪い」ではなく、

「どちらとも言えない」という
都合のよい回答に集まるのだろう。

もちろん自分もそう。

判断するには、
自分の意見を言うには、
あまりにも知らなさ過ぎるから。

そんなことを考えさせられた本。

これをきっかけに、
数珠つなぎで、関連本を探せたので、

もっと興味のあるところから、
日常的に影響するところから、
そして未来にも関わってくるだろうところから、

知識を深め、
自分の考えも深めていけたらと思っている。

原発関連書籍と倉本聰さんの関連書籍を
さっそく注文したところ。

 

さらっとおもしろかったのが、ハチの話。

蜂の組織や、女王バチの誕生まで、
蜂の世界を専門家が語っている。

もうそれは人間界に匹敵するほどの
緻密で構築された世界なんだなと。

それはともかく、
蜂の巣。

本を読みながら目からウロコだった。

「蜂は丸のつもりで巣をつくっているんですよ」

蜂の巣は正八角形の巣穴の集合体。
でも蜂は円形の巣穴をこしらえている。

つまり円を密集させて集合させると、
均等にかかる力の関係上(科学?物理?かな)
正八角形が出来上がるらしい。

ちょっと感動した。

知らなくていいことだけれど、
知ると見方が変わる逸話だ。

 

原発問題で言えば、
導入部だけいうと、

震災前日本の電力における
原子力発電の割合は30%くらい。

原子力発電をやめる選択をするということは、
1980年代の生活に戻るということ。

つまり24時間営業などない街、
夜のネオンや賑やかしさのない街。

経済活動や消費活動にも大きく影響する。
つまり経済大国ではなくなることを意味する。

わかりやすく言ってしまえば、
今よりも貧乏な国になるということ。

これを国民として受け入れる覚悟が必要になる。

逆戻りしてもいいから、
今のいろいろな当たり前の豊かさを放棄してでも、
原発をとめたいか。

 

「1980年代の生活かあ」と正直考えてしまう。

豊かさを捨てることができるのか。
豊かさを捨ててマイナーチェンジした国は、
これまで先進国でどこにもない。

原発を放棄するということは、
他の電力に置き換えればいいじゃないか、ではなく、
国民生活としても犠牲や覚悟がいる、ということ。

やっぱりメディアの情報や議論は、
本質ではないということがよくわかる対談。

問題は深い、ということがよくわかる。

 

別の視点から見ると、
原発事故を起こしながらも、日本の輸出産業として、
原発輸出を推進している政府。

普通に考えて、なんで?と思う。
どんだけ面の皮の厚い国なんだと。

でも少なくともメディアでそんなことは聞いたことがない。

これはそもそも原発への発展してきた道が、
アメリカ政府ならびにアメリカ企業と密接に関わっている。

そんなことがあらゆる角度で深く述べられている。

 

過去も知らない、日本人。
現在も把握できていない、日本人。
未来を想像できない、日本人。

ヒトゴトではないんだなー。

 

倉本

読書:「続・風の帰る場所」 宮崎駿

「続・風の帰る場所」
映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか

映画「崖の上のポニョ」から
映画「風立ちぬ」までの時期のインタビューを再編集。

それぞれ映画公開ごとに
ロングインタビューを雑誌「cut」で特集されていて
それを中心にまとめたもの。

この映画のこのシーンには、
そういう意図があったのか、とか読んでいておもしろい。

そして巻末に映画監督デビュー前、
「未来少年コナン」のころのインタビューも特別収録。

いろいろな意味で時代を感じるというか
その当時のアニメーションの制作環境などを
垣間見ることができる。

それにしても、一貫して筋が通っているというか、
若い頃のインタビューでも軸はぶれていない。

 

そしてこれを読みながらびっくりしたのが、
思っている以上にいろいろな作品に関わっているということ。

もちろん公式にじゃなかったり、
作品にはクレジットされていないものも多い。

でも当時はアニメーター同士のコネクションやで、
手伝う、手伝ってもらう、ということは多かったよう。

「フランダースの犬」
「じゃりン子チエ」
「ひみつのアッコちゃん」 etc

もちろん部分的な手伝いや、
第何話のみということもあるとのことで、
公式経歴にはふまえなくてもいいのだろうけれど、

ほんと作品名を聞いてもわかるくらい有名なものばかりで。

「ド根性ガエル」も開始前の作画(絵コンテ)は
頼まれたのもあり書いたらしい。

でも、あまりにも作風と違うということで、
スタッフから外れたらしい。

そんないろんな逸話が語られている。

しかも当時のインタビューなので、
かなり鮮明というか正確な記憶のなかで。

 

いわゆるミュージシャンでもそうだけれど、
スタジオ・ミュージシャンと言われる人など。

いろんな楽曲に、楽器参加している。
けれど、クレジットされることはあったりなかったり。

アートの世界ではこういうことは多いのだと思う。

特に無名時代や下積み時代とされるときは、
とにかく量をこなすことが勉強というか修行というか。

だから有名になれば、
「実はあの作品の◯◯は●●がやっていた」となるし、

そうでなければ、そういう話題も出てこない。

そういう世界なんだなあと改めて思う。

いくら宮崎駿マニアであっても、
おそらくクレジットされていない作品までも、
あさってチェックする人はごく稀だと思う。

ま、そこに宮崎駿のカラーがあるかないか、
ということに尽きるのか。

公式もしくは公表されているものは、
カラーが色濃く出ているだろうし、
お手伝い程度のものは、いちスタッフとして、ということだろう。

特に昔はアニメーションの世界は、
ほんと少ない精鋭たちで回していたことが、
よくわかる巻末インタビュー内容だった。

宮崎駿 続・風の帰る場所