読書:「諦める力」 為末大

元陸上銅メダリストの為末大。

前から気になっていた本で評判もよく、
やっと読めたので書きとめておきたい要点を。

やっぱりスポーツ選手など、
ある一定の一流を極めた人たちは、
おのずとその人の軸や考え方もしっかりすわっている。

それに加えてこの人はよく本を読んでいることがわかる。
普遍的なことが随所に出てくるから。

 

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はじめに

「諦める」という言葉について、みなさんはどのような印象を持っているだろうか。

「スポーツ選手になるのを諦めた」
「夢を諦めた」

いずれも後ろ向きでネガティブなイメージである。
辞書を引くと、「諦める」とは「見込みがない、仕方がないと思って断念する」という意味だと書いてある。しかし、「諦める」には別の意味があることを、あるお寺の住職との対談で知った。

「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。
仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だというのだ。

そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびやかにする」という意味が記されていた。さらに漢和辞典をひもとくと「諦」には「さとり」の意味もあるという。

こうした本来の意味を知ったうえで「諦める」という言葉をあらためて見つめ直すと、こんなイメージが浮かび上がってくるのではないだろうか。

「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」

諦めるということはそこで「終わる」とか「逃げる」ということではない。

 

本章

戦略とはトレードオフである。つまり、諦めとセットで考えるべきだ。だめなものはだめ、無理なものは無理。そう認めたうえで、自分の強い部分をどのように生かして勝つかということを見極める。勝つためには、最初から負けるフィールドを選ばないことが重要なのだ。

こういうことを言うと、「じゃあ、別のフィールドに移ろう」と安易に流れてくる人も出てくる。さしたる努力もせずに移動を繰り返すのは、諦めていいということを何もしなくていいことだと解釈しているからだ。「諦めてもいい」が、「そのままでいい」にすり替わっている。

僕が言いたいのは、あくまでも「手段は諦めていいけれども、目的を諦めてはいけない」ということである。言い換えれば、踏ん張ったら勝てる領域を見つけることである。踏ん張って一番になれる可能性のあるところでしか戦わない。負ける戦いはしない代わりに、一番になる戦いはやめないということだ。「どうせ私はだめだから」と、勝負をする前から努力することまで放棄するのは、単なる「逃げ」である。

 

「もう少しで成功するから、諦めずにがんばろう」
「せっかくここまでやったんだから、諦めずにがんばろう」

前者は、この先成功しそうだという「未来」を見ている。後者は、今までこれだけやってきたという「過去」を見ている。同じ「やめる」という判断でも、どちらのロジックが背後にあるかで、まるで異なる結果をもたらすだろう。未来にひもづけられているのは「希望」である。ところが、この「希望」と「願望」を混同している人があまりにも多い。

 

自分の人生の横に走っている「別の人生」の存在を日ごろから意識しておく。人には、自分が今歩いている道の横に、並行して走っている人生が必ずある。人生のなかにいろいろな可能性があったはずだ。

さらに言えば、今自分が走っている人生とその横に走っているいくつかの人生は、俯瞰してみれば、同じゴールにつながる別のルートである可能性もある。直接的にゴールに向かう最短ルートもあれば、少し回り道かもしれないが、確実にゴールに到達するルートだってある。このことを意識するだけで、何かをやめたり、諦めたりすることに積極的な意味を感じ取ることができるだろう。

「これをやめたら自分ではなくなってしまう」「この道が唯一の道」「この道が閉ざされると、すべてが終わりになってしまう」、といった追い込まれた状況に陥らずにすむ。自分が今走っているこの道がどこにつながっているのかを考えてみることによって、選択肢が広がるのは確かなのだ。

 

やめること、諦めることを「逃げること」と同義に扱う傾向は、日本の社会においてとくに強いものだと感じる。僕は「やめる」「諦める」という言葉を、まったく違う言葉で言い換えられないかと思っている。たとえば「選び直す」「修正する」といった前向きな言葉だ。そうすれば、多くの人にとって「やめる」「諦める」という選択肢、がもっとリアルに感じられるのではないだろうか。日本では「やめる」「諦める」という行動の背後に、自分の能力が足りなかったという負い目や後ろめたさや敗北感を強く持ちすぎるような気がする。「自分には合わなかった」、本質的には、ただそれだけのことではないだろうか。自分が成功しなかったのは、その分野に合わなかっただけだ。ほかに合うフィールドがあるかもしれないから、諦めて、やめて、移動するのだ。「これは私に合わなかったけど、合うところに行けばもっともっと成長できるかもしれないし、もっと高みに行けるかもしれない」、こうした発想がもっと広がればいいと思っている。

 

正直なところ、やめたことが正解かどうかということは、その瞬間はまったくわからないものだ。何が失敗で、何が成功で、何がいいやめ方で、何が悪いやめ方か。これはどういう時間軸で見るかによって異なってくる。だからこそ、自分のなかで「納得感」を持って終わるしかないと思う。

 

新たな一歩を踏み出すためには環境を変えるのが手っ取り早い。そう思うようになったのは、自分にとってまったく普通ではないことが、誰かにとってはまるで当たり前のことであると気づいたからだ。何を「普通」ととらえるかで人生は相当に変わる。

僕は世界一を意識するのが遅すぎた。日本一を目指すのと世界一を目指すのとでは、最初からやるべきことがまったく違っていて、しかも競技人生は十数年しかない。技術論、戦略論といったものは、何を普通としている集団に属しているかで変わってくる。

人は場に染まる。天才をのぞき、普通の人がトップレベルにいくにはトップレベルにたくさん触れることで、そこで常識とされることに自分が染まってしまうのが一番早い。人はすごいことをやって引き上げられるというより、「こんなの普通でしょ」と思うレベルの底上げによって引き上げられると思う。今までいた場所で、今までいっしょにいた人たちと会いながら、今までの自分ではない存在になろうとすることはとても難しい。

 

どんな分野においても「あの人はすごい」と言われるような人は、無意識と意識のバランスが普通の人に比べて格段にいいように見える。勘にゆだねるときはゆだね、論理的に詰めるときは詰める。無意識にその塩梅を判断しているところが「すごく」見えるのだ。能力は生まれつきの部分があるが、「勘」は経験によってしか磨かれない。だから多様な経験、とくに頭で考えてもどうにもならない極限の経験をしている人のほうが、ここぞというときに強いのではないだろうか。

 

「勝っている状態」を定義する。合コンを例に考えてみよう。合コンに参加する男性は、たいがいその場でモテるかモテないかを気にする。しかし、今後のことも含めてトータルで考えた場合、その場でモテることより、一人の女性と長期的につきあうことのほうが「勝ち」と考えることもできる。どこまで引いて俯瞰で考えるか。どこまで大きく勝ち負けをとらえるか。このことによって、日常の勝ち負けに基準も変わってくる。そう考えると「どこで勝つか」より「何が勝ちか」をはっきりさせておくことが、自分が勝ちたいフィールドでの勝利につながるのだ。

それがわかっていないと、目の前のランキングを過剰に意識してしまう。そもそも、あらゆるランキングは自分以外の誰かが設定したものである。つまり、自分ではない誰かが「こうしたら勝ちだと認めよう」と言っているに過ぎない。

日本人は、金メダルやノーベル賞といった既存のランキングを非常に好む。これは他者評価を重んじる、日本人の気質をよく表わしていると思う。それはそれで目指してもいいとは思うけれど、多くの日本人は、あまりにも人から選ばれようとしすぎてはいないか。人に受け入れてほしいと思いすぎていないか。人から選ばれようとすることは、誰かが設定したランキングからずっと抜け出せないことを意味する。他者評価を求めすぎることは、権威のあるランキングに振り回されることになる。自分なりのランキングを持つということは、他者評価自体を客観的に見ることにほかならない。

 

積む努力、選ぶ努力。言い換えれば、努力には、「どれだけ」がんばるか以外に、「何を」がんばるか、「どう」がんばるか、という方向性があるということだ。積み重ねる努力と違って、「何をがんばるか」という選ぶ努力には、冷静に自分を見てだめなものはだめと切り捨てる作業がいる。これは、精神的にかなりつらい。が、積み重ねるほうにだけ必死になっていて、選ぶ努力を怠った結果、空回りしている人も多い。結局、「選ぶ」ことを人まかせにしてしまうと、自分にツケが回ってくる。

 

努力なしに成功を手にすることはできない。しかし、人によって努力が喜びに感じられる場所と、努力が苦痛にしか感じられない場所がある。苦痛のなかで努力しているときは「がんばった」という感覚が強くなる。それが心の支えにもなる。ただ、がんばったという満足感と成果とは別物だ。さほどかんばらなくてもできてしまうことは何か。今まで以上にがんばっているのにできなくなったのはなぜか。そういうことを折に触れて自分に問うことで、何かをやめたり、変えたりするタイミングというのはおのずとわかってくるものだと思う。

 

本当のところを言えば、終わり際については誰もがそれなりに察していると思う。しかし、周囲から「ここで諦めたらもったいないよ」「うまくいっているし、みんなも喜んでいるのになんでやめるの?」という声が聞こえてくると、自分の感覚のほうが間違っているような気がしてくる。「自分はこのくらいの者だ」という感覚が洗練されていないと、たまたまうまくいっていることや、たまたまうまくいっていないことが「すべて」だと思ってしまう。世の中の評価は移ろいやすく、褒めてくれていた人が手のひらを返したように冷たくなったり、貶めていた人がいつのまにか持ち上げてくれたりと、自分ではコントロールできない。だからこそ、自分の中に軸を持つことが大事なのだ。

 

何でもかんでも手当たりしだいに手に入れることで、幸福が得られるわけではない。むしろ、ある段階がきたら「もうこれはいらない」と手放していくことで、幸福が近づいてくるのではないだろうか。仕事も諦めない、家庭も諦めない、自分らしさも諦めない。なぜなら幸せになりたいから。でも、こうしたスタンスがかえって幸せを遠ざける原因に見えてしまう。むしろなにか一つだけ諦めないことをしっかりと決めて、残りのことはどっちでもいいやと割り切ったほうが、幸福感を実感できるような気がする。

あれも、これも手に入れたいという発想の行き着く先は、つねに「できていない」「足りていない」という不満になってしまう。現代は生き方、働き方も多様な選択肢がある時代だ。それはとてもいいことだが、すべてを選べるということではない。確かに、多様な選択肢を持つことにはメリットもある。ただ、一方では選択肢がありすぎて選べないデメリットもある。それを考えると、メリットばかりを強調することは、自分の軸を見誤らせる危険性を高めていく。

 

「それをやったら何の得になるんですか」。最近の若い人はよくこんな問いかけをしてくる。「やめてはいけない」こと「やらなければならないこと」でがんじがらめにされている気がする。「それをやったらこんないいことがある」と言うのではなく、「そんなことしても得にはならないよ」と言う「優しさ」もあると思う。「得にならなくても楽しいからやりたいな」という感覚をたくさん味わうことが、自分の軸をつくっていくことにつながる。「やめてもいいんだよ」「やっても得にはならないよ」と言われても、意に介さずやる人に共通しているのは、他人に評価してもらわなくても幸福感が得られているということだろう。

 

世の中は不平等である。過去は変えられない。未来のこともわからない。まずは現実を直視することだ。組織が悪い、社会が悪いと責めるのはいいけれど、その間も人間は生きていかなければならない。「世の中」という誰かがいるわけではなく、私たち一人一人がすでに世の中の一部なのだ。世の中はただそこに存在している。それをどう認識して行動するかは自分の自由で、その選択の積み重ねが人生である。なんてひどい社会なんだ。そう嘆きながら立ち止まっているだけの人生もある。日々淡々と自分のできることをやっていく人生もある。選ぶのは自分だ。

 

モノをたくさん持つことが豊かさだという時代は過去のものになりつつある。モノに縛られないことの豊かさや幸福感というものに、多くの人が気づき始めているのではないか。「ほどほど」や「そこそこ」を目指す気持ちは、「縛られたくない」という感覚ともつながるのかもしれない。

僕は昔から、人間関係を整理するとか、モノを整理して捨てるとか、かかっている費用を圧縮するということを定期的にやっている。捨てることで小さくなったり、軽くなったり、安くなったりするのが好きなのだ。しかも、モノを捨てて小さくなることで、選択肢が広がるような気になっていく。「ああ、これがなくても生きていける」「この程度しかかからないのなら、仕事をやめてもしばらくは大丈夫だ」そういう気分だ。いつでも舞台から降りられるという開放感が生まれる。

やらなくてもいいことはやらない、つき合わなくてもいい人とはつき合わない。そう割り切ると、思いもしなかった自由さが手に入った。僕たちは生きていかなければならない。生きていくためのサイズを小さくしておけば、やらなければならないことが減っていく。何かをやめることも、何かを変えることも容易になっていくのだ。モノを捨てる習慣というのは「本当に大事なものは何なのか?」ということを確認する機会なのだ。人が不安になるのは「これがなくなったら大変だ」と思うからだ。不安の種になりそうなものをあらかじめ捨てておくと、不安から自由になれる。

 

どんな競技でも、スポーツをやっていれば「天才」に出会う。がんばれば夢はかなうと信じてがんばっていた僕も、どうにもならないような圧倒的な才能を目の前にして、自分の才能のなさを呪ったことがある。しかし、僕はすぐに考えた。「ああ、これはそもそもぜんぜんモノが違う。じゃあ、僕にできることはいったい何なんだろうか」。スポーツをやっていると本物に出会ったとき、自分の限界をはっきりと知ることできる。本物と自分のどうにもならない「差」を認めたうえで、今の自分に何ができるのかということを考えるきっかけをもらえる。

「才能じゃない、努力が大事なんだ」。一見すると勇気づけられるこの言葉が、ある段階を過ぎると残酷な響きになってくる。この言葉は「すべてのことが努力でどうにかなる」という意味合いを含んでいて、諦めることを許さないところがある。挫折することも許されず、次の人生に踏み出すことのできない人を数多く生み出している。

「仕方がない」。僕は、この言葉に対して、もう少しポジティブになってもいいような気がする。「仕方がない」で終わるのではなく、「仕方がある」ことに自分の気持ちを向けるために、あえて「仕方がない」ことを直視するのだ。人生にはどれだけがんばっても「仕方がない」ことがある。でも、「仕方がある」こともいくらでも残っている。努力でどうにもならないことは確実にあって、しかしどうにもならないことがあると気づくことで「仕方がある」ことも存在すると気づくが財産になると思う。

 

おわりに

今いるところが最高で、そこから下がればマイナスと考えると、現状にしがみつくことになる。それは結果的に行動や思考を萎縮させることにつながる。今を守ろうとして今も守れないという状況だ。成功という執着や今という執着から離れることで、人生が軽やかになる。

たかが人生、されど人生である。人生が重すぎるのであれば、置き換えてもいい。「たかが仕事じゃないか」「たかが就活じゃないか」。そんな気持ちでいられれば、結果を気にして萎縮することなく、全力を出すことができるのだ。意味と勝ちが過剰に求められている現代だからこそ「たかが」「あえて」というスタンスで臨むほうが生きやすいのではないだろうか。

僕は人生において「ベストな選択」なんていうものはなくて、あるのは「ベターな選択」だけだと思う。誰が見ても「ベスト」と思われる選択肢がどこかにあるわけではなく、他と比べて自分により合う「ベター」なものを選び続けていくうちに「これでいいのだ」という納得感が生まれてくるものだと思う。

何が自分に合うか合わないかを理解するには、一定の経験が必要だ。「夢はかなう」「可能性は無限だ」こういう考え方を完全に否定するつもりはないけれど、だめなものはだめ、というもの一つの優しさである。自分は、どこまでいっても自分にしかなれないのである。それに気づくと、やがて自分に合うものが見えてくる。

続けること、やめないことも尊いことではあるが、それ自体が目的になってしまうと、自分というかぎりある存在の可能性を狭める結果にもなる。前向きに、諦める。そんな心の持ちようもあるのだ。

諦める力 為末大