言いたいことが言えるのはその他大勢の意見があってこそ

言いたいことが言えるのは
書きたいことが書けるのは

その他大勢の
自分とは異なる意見や考えがあるからこそ。

そんなことを思うようになった。

 

自分の個性を出すことも
言いたい放題尖れることも
好き嫌いと主張することも

同じことに対して
100人が語っていてくれるなら

自分の一発言が
100分の1となるからこそできること。

そうやって多数派、少数派という
バランスや帳尻ができあがって
相対的評価が浮かび上がってくる。

この人はこう思う
でも私はこう思う
こんな風に思う人もいるんだ
共感できる共感できない

自分の価値観と
他人の価値観をフィルターにかけて
一般論や一般的評価となっていく。

 

でも語っているパイが狭いと、
小さな一見解が、共通見解として、
認識されてしまう恐れがある。

つまり独裁見解が、
そのすべてを支配し、
評価を決定づけてしまうような。

意見が少なければ、
判断する人も判断材料が少ないため、
少ない情報でジャジしないといけない。

 

もっとパーソナルなサイトにするつもりだった。
個性がにじみ出てしまうような尖ったサイト。

通常は
オリジナリティを出してこそ生き残れる
差別化できる、取捨選択してもらえる

だからパーソナルを追求することが大切。

 

でも、それはやはり、
大きなマス、大勢の意見やコミュニティが、
存在するからこそ発揮できること。

「表現の自由」

表現の自由が抑圧されてはいけない。
みな平等に与えられた大切な権利。

「表現の自由」

どうも自由に表現することを躊躇してしまう
そういうシチュエーションもあるんだな。

 

まあでも
国のリーダーでも、経営トップでも、

「それをあなたが言ってはいけない」
ということは存在する。

公私混同してはいけない、
個人の発言と、立場としての発言。

そうか。
立場か。

「表現の自由」は
ポジショニングによって
使い方を変えないといけないということか。

 

書きながら、行きついた答え。
我ながら納得。

 

数の論理で測ってはいけない。

そういうことか。

みんなが言いたい放題言ってるから
自分も言いたい放題言う、それも違うんだ。

発信者として発言者として
自分はどういう立場で
自分はどういう立場になりたくて
自分はどういう立場を求められていて

どういう場所で、何を発言するのか。

ポジショニング。

それをしっかりと持ったうで
自分の意見をしっかりと言う。

 

ですます調で書かなくなった理由

ブログを始めて
飛び飛びながらも早3年。

最初の頃は
「である調」で書いていた。

ところが
強い口調や強いイメージにも
なるのかもしれないと思い

途中から「ですます調」に変えた。

そして今こうやって
「である調」に戻っているのである。

 

どうも「ですます調」はしっくりこない。

なんか媚を売っている自分が
いるような気がして落ち着かなくなる。

「である調」だと、
独り言の延長のようになって、
書いている本人としてはおさまりがいい。

 

ただし、
見ている人からしたら、

「ですます調」と「である調」
どちらが好ましいのはわからない。

 

自分が定期的に見ている
ページやブログは

よっぽど専門的な内容でない限り
だいたい「ですます調」で書かれている。

つまり
人に見られることを前提に
見てくれる人をイメージしているからこそ

丁寧語で「ですよね」「ですね」と
語りかけ、問いかけているのだと思う。

 

「ですます調」で書いているときもあるけれど、
なんか営業や接客をしている気持ちというか、

とても神経を使ってしまう。

見てくれるであろう
架空の読者を無意識に想定してしまって
肩に力が入ってしまうような。

 

そんなこんなである。

「ですます調」を使うときには、
対あなた、対読者、といった、
読み手をイメージできているからこそ、

語りかけられる文体なんだろうと結論。

 

最近は特に
このブログを書くことも、

見てくれる人がいたらうれしい、
共感してくれる人がいたらうれしい、
役に立つなにかがあったらうれしい、

という想いは当然ながらあるけれど、

そもそもが、
文章を書くことで、
自分を整理することが目的になっている。

対自分、自分の内面と向い合っているからこそ
「である調」なんだろうと結論。

 

このライティング・スタイルが、
今のスタイル。

もし「ですます調」に変わる日が来るならば、
それはこのブログの読者が増えたという
ひとつの兆候なのかもしれない。

 

人それぞれ

最近の口ぐせでもあり
最近の思考ぐせでもある。

「人それぞれ」

本当にそうだし
そうとしか言えない。

前提条件として
世界は不平等、不公平、不均等である。

だからこそ

「人それぞれ」

 

他人と比較して
うらやんでも、妬んでも、
それは意味がない。

なんで私だけ・・・・

そもそも
不平等という前提条件を入れていない。

 

良いことも悪いことも、
いつか、どこかで、人それぞれに起こる。

他人と比較している人は、
その運の波形が自分と他人が、
イコールでないといけないと、
無茶なことを言っているようなもの。

同じ波で良い悪いが起こることはない。

 

他者と比べることも
自分の及ばない範囲を比べることも
エネルギーの浪費。

比べるのは過去の自分しかいない。

 

逆に聞きたいと思うときがある。

5年前にXさんと比較して、
すごくうらやみ、妬みすらあったとする。

じゃあその思いは
今現在もそのまま続いているのですか?と。

Xさんが状況変化したかもしれない。
自分が新たに得たこともあるかもしれない。

今という瞬間だけで、
○☓をつけたり評価したり、
一喜一憂するのはとてももったいない。

 

他者の生き方を知ることはすごく大切。
その人の人生における良いときも悪いときも。

それを自分に置き換えて
我が事のように喜怒哀楽できたり
自分の糧にしていったり。

結局は、
自分の胸に手をあててみることでしか
納得する解決はない。

自分の立ち位置は今どこなのか、と。

 

人の喜びも、人の哀しみも、
人の痛みも、人の怒りも。

わかる人でありたい。

でも人生がだぶることはない。
自分の人生、他者の人生。

 

「人それぞれ」と思えるからこそ。

より心が豊かになったり、
より他者をわかろうとしたり、
より自分を戒め切磋琢磨したり。

「人それぞれ」「他人の人生」として
認めるからこそ尊重するからこそ

「自分の人生」との
いいつき合い方ができる。