マイクロプラスチック、ミクロからマクロへ

マイクロプラスチック。
ペットボトル、レジ袋、ポリ容器など。

これが海に流されて
大変な汚染被害になりうると
警戒されている。

これらの物質は、
微小なプラスティック粒子。

ポイポイごみを捨てることにより
海に流れ出てしまう。

分解されたとしても粒子として残る。
つまり消えない。

しかも原料が油なので
海の中で他の有害物質をくっつけてしまう。

それを魚が食べる。
消化できないからそのまま残る。

それを人間が食べる。

 

・・・・

そんなニュースをやっていた。

人間が口にしてしまう
汚染被害もある。

その他食物連鎖で、
汚染物を食べた小さい魚を、
大きい魚が食べる。

すると、
大きい魚たちは
それだけ大量の有毒を摂取することになる。

つまり生態系が崩れて
食物連鎖が崩れる。

 

・・・・

簡単にポイっと捨てた
軽い気持ちで捨てた
1本のペットボトルから
すべては始まる。

そして
それは自分に跳ね返ってくる
恐れを秘めている。

それだけならともかく
自分以外も傷つける可能性も。

 

・・・・

すべてはつながっている。

いいことも、わるいことも。

ひとつの行動が、
どう連鎖していつ跳ね返ってくるか。

すべてに因果関係があることの
恐ろしさをひとつ知った側面だった。

あまり普段考えていない
何気ない行動や習慣が引き起こす爆弾。

 

「ポイ捨て禁止」
標語だけではダメな社会になっている。

なぜダメなのか?
することによってどう影響してくるのか?

そういったイマジネーションや危惧が
社会としても家庭としても個人としても
足りないのかもしれない。

「ダメと決まっているからダメ」
「ダメなものはダメ」
「みんなしていないからダメ」
「罰・罰金があるからダメ」
「なんとなくダメな空気」

頭ごなしのよしあしである。

明確な理由のあるものは、
もっと未来への想像を働かせて、

なぜいいのか、なぜいけないのか、
語り合うことが必要だなあと思う。

 

・・・・

「ポイ捨て」で
未来の人たちに豊かな環境を受け渡せないって、
どんだけ落ちぶれた人類なんだよ、という話。

国、政治、経済、市場、
大きいものは個人は動かせない。

サジを投げたくもなる。

逆説的には、
個々の集合体が
国、政治、経済、市場、を動かしている。

それもまたしかなこと。

個人の良い行いも、悪い行いも、
会社の良い行いも、悪い行いも、

結果国を動かし左右している。

良いことも悪いことも。

ニュースを見ていると、
結局は「個人として自分はどうあるか」
そこに行き着くように思う。

関係のないニュースなんてない。

 

自分の行動や習慣で、
未来の人たちが笑っているか、
泣いているかと思うと、

誰も他人事ではない。

 

人のことは言えない自分がいる。

そういう
自分への戒めのためにも

考えや行動を変えるきっかけとして
書いて整理してみる。

「そういうものに わたしはなりたい」

である。

 

ですます調で書かなくなった理由

ブログを始めて
飛び飛びながらも早3年。

最初の頃は
「である調」で書いていた。

ところが
強い口調や強いイメージにも
なるのかもしれないと思い

途中から「ですます調」に変えた。

そして今こうやって
「である調」に戻っているのである。

 

どうも「ですます調」はしっくりこない。

なんか媚を売っている自分が
いるような気がして落ち着かなくなる。

「である調」だと、
独り言の延長のようになって、
書いている本人としてはおさまりがいい。

 

ただし、
見ている人からしたら、

「ですます調」と「である調」
どちらが好ましいのはわからない。

 

自分が定期的に見ている
ページやブログは

よっぽど専門的な内容でない限り
だいたい「ですます調」で書かれている。

つまり
人に見られることを前提に
見てくれる人をイメージしているからこそ

丁寧語で「ですよね」「ですね」と
語りかけ、問いかけているのだと思う。

 

「ですます調」で書いているときもあるけれど、
なんか営業や接客をしている気持ちというか、

とても神経を使ってしまう。

見てくれるであろう
架空の読者を無意識に想定してしまって
肩に力が入ってしまうような。

 

そんなこんなである。

「ですます調」を使うときには、
対あなた、対読者、といった、
読み手をイメージできているからこそ、

語りかけられる文体なんだろうと結論。

 

最近は特に
このブログを書くことも、

見てくれる人がいたらうれしい、
共感してくれる人がいたらうれしい、
役に立つなにかがあったらうれしい、

という想いは当然ながらあるけれど、

そもそもが、
文章を書くことで、
自分を整理することが目的になっている。

対自分、自分の内面と向い合っているからこそ
「である調」なんだろうと結論。

 

このライティング・スタイルが、
今のスタイル。

もし「ですます調」に変わる日が来るならば、
それはこのブログの読者が増えたという
ひとつの兆候なのかもしれない。

 

安心な暮らしのための税金

テレビで
アメリカの死んだ街の報道を見た。

ゴーストタウンといえば
イメージしやすい。

日本でいえば過疎化など。

 

取り上げられていたのは
街のインフラや治安といった問題。

人がいなくなれば、
なんだか物騒になる。

財政的には、
税金を納めてくれる市民がいない。

 

・・・・

納める税金が少ないことによる街の衰退。

警官やパトロールが減ることの
治安の悪化。

夜道も気軽に歩けない街灯の節電。

客が来ないのでお店も閉まっている。

なるほどたしかに。

こうやって街が死んでいくという
側面はあるのかもしれない。

 

・・・・

当たり前のように、

義務教育を受けれることも

仕事があることも

老後の安心した生活が送れることも

 

もっと言えば、

蛇口をひねれば水が出てくることも

夜道を気にせず歩けることも

ゴミを出せばきれいに収拾してくれることも

挙げればきりがない

 

街のインフラ、ライフラインが確保され、
安全安心に暮らせている日常生活。

 

・・・・

税金が高い! と思わないこともない。

でもたまには

私が税金を払っている
市民が税金を払ってくれている

その集合体のおかげで
その街で生活できていることは事実である。

 

税金を払うということは、
それだけで同じ街に住む者同士が、

支えあっているということなのかもしれない。

顔も名前も知らない者同士
無言の支えあいというおもしろい構図。

 

金額に置き換えた損得勘定ではなく、
「税金を払う」ことによる恩恵。

平和、安全、豊か、幸せ。

 

そのアメリカのとある
さみしい街の光景を眺めていたら

そんなことを思った。

 

正月太りは豊かさのしるし

友人が憤慨していた。

年末年始明けの仕事はじめで
「おまえ太ったな」と言われたらしい。

おれらは気をつけてたから
あまり変わらないけど
おまえが一番太ったんじゃないか

そういったやりとりだったらしい。

 

さて何を憤慨していたのか。

『正月に美味しいものを食べて何が悪い』

ここがポイントである。
しごく強く同意する。

 

年末年始は家族や知人などと一緒に
ごちそうや会食の機会も増える。

そうやって日常より食べ過ぎる結果
蓄えて太ってしまう。

 

何が悪い!?

個人的にもそう思う。

 

これは幸せなこと。
いい年末年始を過ごせたということ。

そうして大切な人たちと
美味しいものを味わえる幸せ。

 

だいたい
年末年始に節制して気をつけた?!って

年末年始の一週間こそ
ありがたく、たらふく、めでたく、いただいて、

それができるのは豊かなしるし。

残りの350日で安定して節制すればいい。
そう思う。

 

だから
なんかはき違えてるは言い過ぎにしても

年末年始、正月の楽しみ方、
迎え方としてもったいないと思う。

 

友人の憤慨は正論だなと思い、
思わずこちらも熱くなってしまった。

「そんなこという人たちが損してる」
くらい言ったかもしれない。

 

正月だけじゃなく、
季節を味わう、また節目のめでたいときは、

美味しくいただくことが、
正しい楽しみ方じゃないかなあ。

そのときにしか食べられない
縁起物もたくさんある。

 

個人的には、

年越しそばも逃し、
おせち料理にもありつけなかっただけに、

正月を味わえる機会はうらやましい。

この儀式があってこその
正月気分と言ってもいいのかもしれない。

 

当たり前のように毎年ならぶ正月料理を
当たり前のように食べられる幸せ。

そういう日本人の心を
大切にしたいものである。

 

若い頃はそんなこと思うことなく
ご馳走も機会もないがしろにしてきた。

歳を重ねた証拠だろうか。

歳を重ねることでそう思えたのなら
それもまた進歩なのかもしれない。

 

重い腰にはカタチから入る

なにせ日常生活動かない。

デスクワークの極みである。

年も歳である。

 

あまりにも動かなすぎるなー

運動不足だなー

健康には気をつけないとなー

ちょっと歩いても息がきれるなー

・・・・

歩こうかなー 走ろうかなー

音楽聴きながら散歩しようなかー

 

そんなことを常々言っていたからだと思う。
プレゼントに立派なウェアをいただいた。

これは「おまえやれよ!」という無言の圧力か!?

 

しかもである。

運動用に手袋までついてきた。
これは「寒くてもやれよ!」というSな圧力か!?

 

たしかに、

暖かくなったら始めようかなー

なんてノンキなことを言って、
できるだけ予定をずらしつづけていた。

 

うーん。

重い腰にはカタチから入るとは言うけれど、
カタチから外堀を固められるとは。。

いや、健康を想ってくれてのありがたいプレゼント。

 

走るつもりはないので、
音楽を聴きながら歩こう。

30分くらいからはじめてもいいから。

 

そういえば手袋、
『タッチ操作可能』ってなってたな。

スマホも音楽も、手袋したまま操作できますよ、と。

 

これは使わないわけにはいかない。
重い腰をいよいよあげるのか!?

いや、今年も目標のひとつでもあるから。

今年中には始めようと思っている。

 

今年中?!

思ったが吉日、今日が記念日、すぐやれよ!

そんな言葉がウェアと手袋から聞こえてるような、
監視されてるような視線を感じる。