命日に紫色の花を

祖母が亡くなってから1年。

命日にお花をお供え。

トルコキキョウというらしい。

朝イチで花市場へ行って選んだ。

花言葉やしきたりなんかはわからないので
好きだった紫色の花にしようと決めていた。

なにかをすることよりも、
結局は故人を忘れないこと。

それが一番大切だと思いながら、
感謝の気持ちで手を合わせる。

 

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パソコンデータの断捨離

ちょっと調べ物があって。

ついでにこれまでストックしてきた
資料やデータたちを整理整頓することに。

 

整理整頓 とは

「いるものといらないものを分け、いらないものを捨てる(整理)」
「必要なものを必要なときに使える状態にする(整頓)」

 

【いるいらないの整理】だけだったら
時間はかからなかったのだけれど

資料やデータの内容を見ながら
ひとつひとつを整理していったので

少し時間はかかった。

その整理の中で必要な情報も確認できた。

 

そして
【新しいフォルダへ整頓】していったのだが

なんとビックリ!
ほぼ残っていない。

おそらく1割~2割しか生き残っていない。
100個資料があったとしたら、10~20個。

残りのほとんどは捨ててしまった。

 

残らなかった理由は大きく3点

  • 本来必要なものではなかった(いつか使うかも!?的発想)
  • 情報が古くなっていた(今使いたくても賞味期限切れ)
  • 今の自分・環境には必要ない(直近の将来的にも)

整理整頓をしているなかで
こんなことを思いながらポイ。

 

そもそも蓄積型で大量保管していたとしても
必要なときに探せないという事態が起こる。

捨ててしまったもので、
仮に使ういつかが訪れてしまった場合、

またそのときに取得すればいい。
賞味期限切れじゃない、旬で活用できる情報を。

 

1年以上着ない服は捨てる。
こんな断捨離な話を聞いたことがある。

1年間着ない服なんて、
ほんとお蔵入りに等しい。

365日のあいだで一度も選んでもらえないのだから。

 

そして意を決して捨てたとして、
捨ててしまったという後悔は瞬間的なもの。

半年もしたら、1年もしたら、
その服を捨てたことすら忘れている。
そんな服があったことすら忘れている。

後悔すべきは捨てることよりも、
着なくなる服を買ってしまったこと。

 

だから何事もシンプルが一番。
いろいろな持ち物は身軽なほうが動きやすい。

 

余談だけれど、
個人的には読んだ本もなるべく手元には残さない。

必要な箇所はノートなどに整理し、記録し、手放す。

また見返すかもなんて、
よっぽどな専門書・事典・説明書などじゃないかぎりはない。

いい事書いてあったなーとおもう程度なら、
その箇所だけ書き写しておけばいい。

そのうち本棚に眠って、
どこにいい事が書いてあったのか、
そもそもこの本はなんでとってあるんだっけ??

となるのが関の山。

小説などはまた判断基準が異なるけれど。

 

そうやって手放してしまった本で、
また必要になってしまい買い直したこともある。

数回だけれど。

そういうときは、手放した自分の、
その当時の未熟さ、判断の甘さを責めるのみ。

そうやって鍛錬を積むという感じ。

 

だからデータも服も本も、なんでも、
平気で捨てているわけではない。

覚悟を決めて断捨離、整理整頓している。

 

身をきって、時間を使って、
お金を使ったものを断捨離するということは、

「二度と同じ過ちを犯さないため」でもある。

こうやって自らを研ぎ澄ませていくこともまた鍛錬なり。

 

いらないから捨てる。
いらなくなるだろうから買わない/持たない。

結果選りすぐりのものだけ残る。
いい循環である。

結果お金にも時間にもやさしい。
お金(買う)や時間(整理整頓する)のムダが減る。

いい循環である。

かるかんと白い鉢

ゴールデンウィークに友人が遊びに来た。

毎年GWに鹿児島旅行に行っていて、
そして毎年旅行帰りに家に寄る。

「かるかん」というおみやげを持って。

鹿児島銘菓かるかん。
そのなかでも明石屋のかるかんが一番美味しい。

あんこが入っていない。
そこがいい。

だから何個でも食べれてしまう。

かるかん

 

明石屋のかるかんって、
他の蒸気屋のかるかんとかと違って、

鹿児島でしか入手できない。

そこがまた希少で、
だから自分が行くか、おみやげでいただくかでしか、

このかるかんにありつけることはない。

それを知ってて、
毎年このかるかんをお土産にいただいている。

 

今年はそれにプラスして、
なんでか白い鉢をひとつプレゼントでもらった。

何焼って言ってたかなあ、忘れた。
鹿児島とは関係はなかったことだけは覚えている。

せっかくなのですぐに飾ってみる。

ゼラニウム リトルハート

白が映える。明るくなって花も映える。
そんな印象。

花は、ゼラニウム・リトルハートという種類。

一般的なゼラニウムと違って小ぶりで大きくならない、
成長をおさえているシリーズ。

そのことはまた。

 

かるかんといい、花のことといい、
気にかけてくれているのはありがたいかぎりです。

 

電話帳リストの断捨離

この本題のまえに、
自分にきたスパムメールの云々 前置きはこちら。

電話帳リストの断捨離 の前置き

 

「断捨離」という言葉が流行って数年。
もちろん今もそれを支持する論はたくさんある。

以前読んだ本に、
「私は定期的に掃除をする。持ち物はおろか交友関係も。」
「3ヶ月に1回は自分の身の回りの断捨離をする。」

人間関係も断捨離?
なんて殺生な、と思った記憶がある。

 

ただ、支持する部分もある。
それがスマホなどに登録されている電話帳リスト。

その登録リストの整理整頓、
つまりは登録されている人の断捨離、ということになる。

 

これってこのご時世結構大切なような気がする。

自分のケータイに登録されている人は、
明らかに関係性があり、お世話になっていたり、

一言で言ってしまえば、
「他人ではない」「迷惑をかけたくはない人」に分類される。

そんななかで、
自分がダウンロードしたアプリや閲覧したサイト、
そこにウイルスが潜んでいて、

スマホ内の個人情報が抜き取られる。
と、そこには電話帳リストが存在する。

ということは、
「迷惑をかけたくない人」たちなのに、

自分自身が迷惑をかける元凶になってしまっている、
というイヤーな構図が出来上がる。

 

結論を言ってしまうと、
自分が思う5-10年連絡をとってない人は、

電話帳から削除したほうが、
お互いのためではないかと思う。

 

想定外のリスクや問題は避けられないので、
なんらかの理由で感染したりするかもしれない。

すぐに連絡できる電話帳リストの人には、
すぐに対応ができる。

でも、
ずーと音沙汰ない、ご無沙汰すぎる人たち
もう連絡することはないだろうと思っている人たち
リストを見ても顔すら思い出せない人たち
リストを見てもその人すらわからない人たち

これって電話帳にいる必要があるだろうか。

 

なにかのときのために、なんて、
そんな「何かのとき」は起こることはない。

そのときは”顔なじみ”の”送受信履歴にある”
そういった人たちを想定するのではないかな。

 

目安として、
5-10年連絡をとっていない人 というよりも、

これから先、
「いつか自分から連絡を取りたいと思っている人」

でいいのかなと思う。

 

だから逆もしかりで、
過去の延長線上でただただ自分のことを
電話帳リストに登録したままの人たち。

早く削除してほしいとすら思う。

理由は一緒。

個人情報の滞積で、
いつ迷惑が降りかかってくるかわからない。

そう、だからお互いのため。

 

「いつか自分から連絡を取りたいと思っている人」

このモノサシがミソ。

相手に知らずに削除されてたら確かに悲しい。
(それを知るよしもないけれど)

でも自分が取りたい相手なら、
自分の電話帳リストには残っているわけだから、

必要なときに連絡をとればいい。

逆もしかり。

相手が残していて、自分が消した。
それでも相手が連絡を取りたいならば、
いつかその人から来ることもあるだろう。

そして、お互い自然消滅でいいなら、
それが円満ということにもなる。

 

前置きで話したスマムメールの話もそう。

自分は多くの人の個人情報を握っている。
日々持ち歩いている。

この感覚をもっと持つべきだろう、と思う。

 

なにが言いたかったかって、

現代人は日常生活のなかで、
自分に関係している多くの人の個人情報を持ち歩いている。

その管理、断捨離はできているのか?

ということを、
うんちくをまじえて、電話帳リストの断捨離の正当性を、
述べてみたまで。

 

電話帳リストの断捨離 の前置き

スマホに登録されている
電話帳リストの断捨離についての話。

その前に前置きの話。

 

「携帯変えました。登録よろしくお願いします。体調良くなった?またご飯でも行こうね。」

みたいなケータイメールが届いた。

 

この人、名前書いてないから、
誰だかわからない。

体調良くなった? っていつの話のことだろう。

そのまま放置しておくことに。

数日後、別のアドレスから、
文面はまったく同じではないけれど、

また同じよーな、メールが届いた。

 

あ、これってチェーンメールなのか、
とそのとき気づいた。

普通の人は?
「名前がなかったですが、どなたですか?」

など返信をするだろう。

そこがエサに食いついたということになる。

 

要は、メールに返信が来たということは、
ランダムに大量に送ったメールアドレスのなかで、

届いた、受け取った証である。
返信をしたということが。

そうして、
なんらかのリストに登録されてしまうのだろう。。

そうやって、
またその後もいらずらメールの餌食になり続ける。

だって、
そのアドレスは生きている(使われている)ということを
自ら手を挙げて知らせてしまったことになるから。

 

でも、こういうスパムメールって、
結果なにがしたいんだろうと思う。

その先にはどんなブラックな世界、
ブラックな企てが隠れているのか。

知るよしもない。
知りたくもない。

 

そして、
「電話帳リストの断捨離」の本題へとつづく。

 電話帳リストの断捨離