「知識格差」
最近読んだ本で
飛び込んできたフレーズ。
まさに、いい表現だなと思う。
一冊分の本の内容は覚えていない。
でもこの言葉だけがずっと残っている。
経済に関する新刊ビジネス書だった。
「所得格差」はどんどん広がる。
それを受け入れるか、
手をこまねいて見ているか、
行動を起こすか。
できること、できないこと、
変えられること、変えられないこと、
それぞれあるだろう。
「知識格差」
所得格差は外的要因もあり、
自分の及ばない範囲もある。
でも
知識格差は本人次第である。
すべてが本人に委ねられていると
言い切ってしまってもいい。
知識を得るか得ないか
それだけである。
誰にでも平等に与えられた機会である。
得るか得ないか
得ようと思うか思わないか
得ようと努力するかしないか
得る行動をするかしないか
それだけである。
「知識格差」
本当にいい表現であり、
核心をついていると思う。
個人的には
「情報格差」となっていないところもよい。
スッと頭にも心にも入ってきた要因。
情報はその名のとおり情報である。
知っているか、知らないか。
でも
知っているだけでは
おそらく何も変わらない。
自分で理解し、行動し、血肉となり。
「情報」が「知識」へと変化する流れだと思う。
だから
「情報格差」は何も生まないし生産性がない。
知っているという優越感だけである。
「知識格差」は
未来に対して大きな変化をもたらすだろう。
仕事も趣味もそう。
精通している分野だからこそ
知ってる知らないの
表面的情報に終わらせない。
情報を知識に変化させていく。
自分をより豊かにするために。
そうしてまた
新しい知識を手に入れる。
武器はどんどん増え
アップデートをくりかえす。
まさに「知識格差」のサイクルである。
知識を得て、
自分が変われるなら、
未来が変わるなら、
それはすばらしい。
そうして、
血肉となった知識が、
周りの助けとなったり、
協力したい人の援助になったり、
必要としてくれる人がいたり、
活かされて連鎖するならば
なおすばらしい。
行動、体験、体感は
おのずと知識へ変化しやすい。
情報化社会においての
メディア、本などから得る情報は、
情報で終わらせるのはもったいない。
そこから何か自分にとって生まれるか。
肝に銘じて接していきたい。