通販・訪問小売業の倒産、前年比39.1%増

通信販売・訪問販売小売業の
倒産が過去最多を記録している。

2015年1-11月累計で
倒産64件(前年同期比39.1%増)

ちなみに
小売業全体だと
倒産1,211件(前年同期比2.7%減)

ちなみに
全国の企業全体だと
倒産8,812件(前年同期比9.4%減)

 

一年間で
パタパタパタパタと倒産している。

その数は置いておいたとしても、
全体・小売業ともに減少傾向のなか、

通販や訪問販売だけが
倒産の増加傾向にある。

そこが気になったポイント。

 

通販・訪問小売業に絞って。

業種別では、
アパレル、インテリア用品、家電の順番で、
倒産件数が多い。

倒産形態は破産が9割。

原因別では、
業績不振、他社倒産の余波、
事業上の失敗、運転資金欠乏の順。

従業員別では、
5人未満の会社倒産が3割増え、
全体の8割を占める。

事業年数別では、
2010年以降5年以内の新規事業者が
倒産件数中3割を占める。

 

・・・・

うーん、これはどういうことなんだろう。

フットワーク軽く事業立ち上げやすい
少数精鋭で経営
急上昇で実績を伸ばす

こういった業種としての武器が
使えなくなってきているのか。

導入期や成長期ではないので
安易に立ち上げること
難しくなってきているのかも。

いや、容易に開始はできるけれど、
継続していくことが難しいということ。

それはどの世界でも同じ。

 

大きくは
アベノミクスの円安加速
輸入品やコストの増

などが母体を支えるのに影響している。

原価増やコスト増による
価格競争ができなくなって
企業としての体力を消耗してしまう。

消費の堅実や
冷え込みもあるのかもしれない。

競争原理は
どの分野でもいつの世界でもあること。

だからこそ
計画、戦略、差別化、
臨機応変な変化体質が求められる。

 

明日は我が身。

 

マイクロプラスチック、ミクロからマクロへ

マイクロプラスチック。
ペットボトル、レジ袋、ポリ容器など。

これが海に流されて
大変な汚染被害になりうると
警戒されている。

これらの物質は、
微小なプラスティック粒子。

ポイポイごみを捨てることにより
海に流れ出てしまう。

分解されたとしても粒子として残る。
つまり消えない。

しかも原料が油なので
海の中で他の有害物質をくっつけてしまう。

それを魚が食べる。
消化できないからそのまま残る。

それを人間が食べる。

 

・・・・

そんなニュースをやっていた。

人間が口にしてしまう
汚染被害もある。

その他食物連鎖で、
汚染物を食べた小さい魚を、
大きい魚が食べる。

すると、
大きい魚たちは
それだけ大量の有毒を摂取することになる。

つまり生態系が崩れて
食物連鎖が崩れる。

 

・・・・

簡単にポイっと捨てた
軽い気持ちで捨てた
1本のペットボトルから
すべては始まる。

そして
それは自分に跳ね返ってくる
恐れを秘めている。

それだけならともかく
自分以外も傷つける可能性も。

 

・・・・

すべてはつながっている。

いいことも、わるいことも。

ひとつの行動が、
どう連鎖していつ跳ね返ってくるか。

すべてに因果関係があることの
恐ろしさをひとつ知った側面だった。

あまり普段考えていない
何気ない行動や習慣が引き起こす爆弾。

 

「ポイ捨て禁止」
標語だけではダメな社会になっている。

なぜダメなのか?
することによってどう影響してくるのか?

そういったイマジネーションや危惧が
社会としても家庭としても個人としても
足りないのかもしれない。

「ダメと決まっているからダメ」
「ダメなものはダメ」
「みんなしていないからダメ」
「罰・罰金があるからダメ」
「なんとなくダメな空気」

頭ごなしのよしあしである。

明確な理由のあるものは、
もっと未来への想像を働かせて、

なぜいいのか、なぜいけないのか、
語り合うことが必要だなあと思う。

 

・・・・

「ポイ捨て」で
未来の人たちに豊かな環境を受け渡せないって、
どんだけ落ちぶれた人類なんだよ、という話。

国、政治、経済、市場、
大きいものは個人は動かせない。

サジを投げたくもなる。

逆説的には、
個々の集合体が
国、政治、経済、市場、を動かしている。

それもまたしかなこと。

個人の良い行いも、悪い行いも、
会社の良い行いも、悪い行いも、

結果国を動かし左右している。

良いことも悪いことも。

ニュースを見ていると、
結局は「個人として自分はどうあるか」
そこに行き着くように思う。

関係のないニュースなんてない。

 

自分の行動や習慣で、
未来の人たちが笑っているか、
泣いているかと思うと、

誰も他人事ではない。

 

人のことは言えない自分がいる。

そういう
自分への戒めのためにも

考えや行動を変えるきっかけとして
書いて整理してみる。

「そういうものに わたしはなりたい」

である。

 

言いたいことが言えるのはその他大勢の意見があってこそ

言いたいことが言えるのは
書きたいことが書けるのは

その他大勢の
自分とは異なる意見や考えがあるからこそ。

そんなことを思うようになった。

 

自分の個性を出すことも
言いたい放題尖れることも
好き嫌いと主張することも

同じことに対して
100人が語っていてくれるなら

自分の一発言が
100分の1となるからこそできること。

そうやって多数派、少数派という
バランスや帳尻ができあがって
相対的評価が浮かび上がってくる。

この人はこう思う
でも私はこう思う
こんな風に思う人もいるんだ
共感できる共感できない

自分の価値観と
他人の価値観をフィルターにかけて
一般論や一般的評価となっていく。

 

でも語っているパイが狭いと、
小さな一見解が、共通見解として、
認識されてしまう恐れがある。

つまり独裁見解が、
そのすべてを支配し、
評価を決定づけてしまうような。

意見が少なければ、
判断する人も判断材料が少ないため、
少ない情報でジャジしないといけない。

 

もっとパーソナルなサイトにするつもりだった。
個性がにじみ出てしまうような尖ったサイト。

通常は
オリジナリティを出してこそ生き残れる
差別化できる、取捨選択してもらえる

だからパーソナルを追求することが大切。

 

でも、それはやはり、
大きなマス、大勢の意見やコミュニティが、
存在するからこそ発揮できること。

「表現の自由」

表現の自由が抑圧されてはいけない。
みな平等に与えられた大切な権利。

「表現の自由」

どうも自由に表現することを躊躇してしまう
そういうシチュエーションもあるんだな。

 

まあでも
国のリーダーでも、経営トップでも、

「それをあなたが言ってはいけない」
ということは存在する。

公私混同してはいけない、
個人の発言と、立場としての発言。

そうか。
立場か。

「表現の自由」は
ポジショニングによって
使い方を変えないといけないということか。

 

書きながら、行きついた答え。
我ながら納得。

 

数の論理で測ってはいけない。

そういうことか。

みんなが言いたい放題言ってるから
自分も言いたい放題言う、それも違うんだ。

発信者として発言者として
自分はどういう立場で
自分はどういう立場になりたくて
自分はどういう立場を求められていて

どういう場所で、何を発言するのか。

ポジショニング。

それをしっかりと持ったうで
自分の意見をしっかりと言う。

 

ですます調で書かなくなった理由

ブログを始めて
飛び飛びながらも早3年。

最初の頃は
「である調」で書いていた。

ところが
強い口調や強いイメージにも
なるのかもしれないと思い

途中から「ですます調」に変えた。

そして今こうやって
「である調」に戻っているのである。

 

どうも「ですます調」はしっくりこない。

なんか媚を売っている自分が
いるような気がして落ち着かなくなる。

「である調」だと、
独り言の延長のようになって、
書いている本人としてはおさまりがいい。

 

ただし、
見ている人からしたら、

「ですます調」と「である調」
どちらが好ましいのはわからない。

 

自分が定期的に見ている
ページやブログは

よっぽど専門的な内容でない限り
だいたい「ですます調」で書かれている。

つまり
人に見られることを前提に
見てくれる人をイメージしているからこそ

丁寧語で「ですよね」「ですね」と
語りかけ、問いかけているのだと思う。

 

「ですます調」で書いているときもあるけれど、
なんか営業や接客をしている気持ちというか、

とても神経を使ってしまう。

見てくれるであろう
架空の読者を無意識に想定してしまって
肩に力が入ってしまうような。

 

そんなこんなである。

「ですます調」を使うときには、
対あなた、対読者、といった、
読み手をイメージできているからこそ、

語りかけられる文体なんだろうと結論。

 

最近は特に
このブログを書くことも、

見てくれる人がいたらうれしい、
共感してくれる人がいたらうれしい、
役に立つなにかがあったらうれしい、

という想いは当然ながらあるけれど、

そもそもが、
文章を書くことで、
自分を整理することが目的になっている。

対自分、自分の内面と向い合っているからこそ
「である調」なんだろうと結論。

 

このライティング・スタイルが、
今のスタイル。

もし「ですます調」に変わる日が来るならば、
それはこのブログの読者が増えたという
ひとつの兆候なのかもしれない。

 

人それぞれ

最近の口ぐせでもあり
最近の思考ぐせでもある。

「人それぞれ」

本当にそうだし
そうとしか言えない。

前提条件として
世界は不平等、不公平、不均等である。

だからこそ

「人それぞれ」

 

他人と比較して
うらやんでも、妬んでも、
それは意味がない。

なんで私だけ・・・・

そもそも
不平等という前提条件を入れていない。

 

良いことも悪いことも、
いつか、どこかで、人それぞれに起こる。

他人と比較している人は、
その運の波形が自分と他人が、
イコールでないといけないと、
無茶なことを言っているようなもの。

同じ波で良い悪いが起こることはない。

 

他者と比べることも
自分の及ばない範囲を比べることも
エネルギーの浪費。

比べるのは過去の自分しかいない。

 

逆に聞きたいと思うときがある。

5年前にXさんと比較して、
すごくうらやみ、妬みすらあったとする。

じゃあその思いは
今現在もそのまま続いているのですか?と。

Xさんが状況変化したかもしれない。
自分が新たに得たこともあるかもしれない。

今という瞬間だけで、
○☓をつけたり評価したり、
一喜一憂するのはとてももったいない。

 

他者の生き方を知ることはすごく大切。
その人の人生における良いときも悪いときも。

それを自分に置き換えて
我が事のように喜怒哀楽できたり
自分の糧にしていったり。

結局は、
自分の胸に手をあててみることでしか
納得する解決はない。

自分の立ち位置は今どこなのか、と。

 

人の喜びも、人の哀しみも、
人の痛みも、人の怒りも。

わかる人でありたい。

でも人生がだぶることはない。
自分の人生、他者の人生。

 

「人それぞれ」と思えるからこそ。

より心が豊かになったり、
より他者をわかろうとしたり、
より自分を戒め切磋琢磨したり。

「人それぞれ」「他人の人生」として
認めるからこそ尊重するからこそ

「自分の人生」との
いいつき合い方ができる。