情報が溢れる現代社会。
情報メタボにはなりたくない、というお話。
日常生活において、過度の必要以上の食料栄養分をとれば
メタボとなってしまいます。
自分の意思と関係なく食べないといけない機会もあるでしょう。
つい今日は食べ過ぎてしまった。勧められたから。飲み会だったから。
いらないんだけど、そこまで欲してしない自分がいるんだけど、
なぜか口に運んでしまう。
もしくは、
自分のキャパや体の許容範囲をわかっていない、なんて場合もある。
わかってはいるんだけれど、蓄積される一方で、発散できていない、
なんて場合も。
その結果がメタボ。
情報も同じです。
与えられる、勝手に入ってきてしまう、すぐ手に取れてしまう、
そんな情報をつまみ食いばっかりしていたら・・・?
今必要じゃないんだけど、いつか必要になるかも、蓄積。
頭のキャパを超えそうなんだけど、蓄積。
そもそも情報なんて多いなら多いに越したことはない、蓄積。
そして、使いたい時に使えなくなる、身動きができないくらい重くなる、
キャパオーバー。
その結果が情報メタボ。
だから、インプットとアウトプットの話。
食べ物も、生きるために必要。
つまり、エネルギーとして発散するというアウトプットのために、
食べるというインプット。
アウトプットを前提としたインプット、なわけです。本来は。
情報も、何かに使うために必要。
つまり、何かに使う想定というアウトプットのために、
情報を得るというインプット。
アウトプットを前提としたインプット、なわけです。こちらも。
なかなかわかりやすい、メタボつながりではないですか?
(と自分は思っている)
極論ですよ。
カラカラに喉が渇いた時の、目の前に見つけた水1杯の喜び。
それを飲んだ時の快感。
これ状況的にも、いつもの水とは違いますよね。
その水1杯だけで、どれだけのエネルギーになりますか、体も心も。
情報も同じです。
欲していた情報に出会えたときの喜び。
それを吸収したときの快感。
その情報1つだけで、どれだけの効果的なアウトプットができることか。
食べ物も情報も、そこに価値を与えるのは自分自身、
ということになりますね。
タダの水でも、高級料理でも、その時に美味しいと至福を味わうのも、
無料の情報でも、高額な情報でも、
その時に知ってよかったと至福を味わうのも、
その時の自分自身の体と心の状態に左右されてしまう、ということ。
もし、食べ物も情報も浴びるように摂取したときには、
とりあえず、まずはそれをエネルギーとして発散させるとことから。
そうやって自分の体も頭も心も、
どのくらいが健康状態なのかを知っていく。
情報計とかあったらおもしろいのに。
あっ、体重計で自分の体重を量るのに、かけてるだけです。はい。
常に空腹なくらいがちょうどいい。
常に食べる時は腹八分くらいがちょうどいい。
これってフットワークを軽くしたり、
いつもいい意味で「余白」をつくっておく、ということ。
くどいですが!
情報も同じですね。
もうこれ以上は、置き換えて書きません。
文字数メタボになっちゃいますからーっ、残念。