勝つことと勝ち続けることは違う part.2

結果を出せなかったときにどう受け止めるか。
これがカギになってくる。

・たまたま負けたと運のせいにする
・~~が悪いと責任転嫁する
・相手が強かっただけと諦める
・自分も年をとったと頭を抱える

ではなくて、
事実をどう受け止めて分析するか。
そしてひとつひとつ問題を改善・解決していく。

安易で楽な方法で結果を出すよりも
地道で遠回りな継続でしか手に入れることのできない強さ
というのがある。

結果を出し続けるということは、
その継続のなかに成長・変化がありそのスパイラルアップで
勝ち続ける力へと進化していく。

 

『急がば回れ』
ここには本当に大切な教訓がある。

即席で身につけた能力や知識なんてすぐに使えなくなります。
瞬間的にしか効果も発揮しなければ、すぐに通用しなくなります。

見方を変えれば、
それは他の人もすぐに身につけれてしまう程度のもの
ということにもなります。

それよりも瞬間的な結果や瞬間的な勝ち負けに一喜一憂せずに
正しい目標と、正しい期間設定と、正しいやり方で、
継続して努力していくほうが磨いていくほうがきっと将来輝きます。

 

ビジネスの世界でもスポーツの世界でも、
だから結果を出し続けている会社、選手ってその凄みが違うんです。

そこにはどんな決定的な差があるのか?

 

自分が思うに、仮に10年後も20年後も
『戦い続ける・向き合い続ける覚悟があるか?』

そしてどんな失敗や挫折があっても屈しない
『自分をどれだけ信じられるか?』

このふたつが「勝ち続けるため」の志 という結論。 2013.秋 現在

 

勝つことと勝ち続けることは違う part.1

勝つことと勝ち続けることは違う。

もっと一般的に大きく捉えれば、
結果を出すことと結果を出し続けることは違う。

何が違うか。
目標もやり方も考え方もすべて。

 

ダイエットをしたくて1ヶ月に数キロ減量できたとしても
太りにくい体づくりができたわけではない。
瞬間的に減量するならば食べなければいいけれど、
健康を維持しながらとなると方法が違う。

3ヶ月後のTOEIC試験で結果を出すための勉強法と
5年後も英語を話せるようになるための勉強法は違う。

ギターを1曲マスターするための練習方法と
いろんな演奏技法やジャンルを弾きこなせるための練習方法は違う。

 

というように、

瞬間的に勝つ(瞬間的に結果を出す)やり方と
継続して勝つ(継続的に結果を出す)やり方では
天と地との差があります。

勝つことを否定しているわけではなく、
勝ち続けることの難しさやそのための臨み方は入口から違うので
間違えると「頑張り方が違うよ」ということになってしまいます。
もしくは長い目で見ると「頑張り損」ということにも。

 

単純に考えてもそうですよね。
「1日15時間勉強して合格しました!」
これはこれですごいことです。実行力も集中力も結果も。

でもその知識が継続するか?
今後いつでも使えるように血肉となっているか?
と言われてしまうと・・・突かれたくないところです。

これって仕事や趣味など取り組んでいるすべてのことに
言えるんじゃないかと思うわけです。

エイヤーッ!で結果を単発的に出しても次が続かない、
あまりにも長期的に捉えすぎていて結果を出し続けるどころが
単発的にも結果を出せない焦り。

じゃあどうするか。

結果を出し続けるためには、「継続した努力」が必要です。
シンプルに当たり前のことですが。

瞬間的な努力ならば、自分にムチ打ってでも厳しくすればいいでしょう。
でも長期的な努力の場合はどうしたら?

甘くもなく厳しすぎず、そして結果を出し続けるために・・・

その答えは
『その努力は1年間続けられますか?』

という自分への問い。

 

大切な人ほど手放しなさい

昔読んだ小説で気に入っているフレーズ。
小説といってもほぼノンフィクションな内容だったような。

料理人のお話で、師匠と弟子との関係での考え方。

手塩にかけて育てた弟子ほど、
愛着のある弟子ほど手放したくないもの。

ずっと自分のそばにおいておきたい。近くで成長を見守りたい。

そんなときに、縛ってしまうのではなくて、
弟子が新しい道へ進もうとしたときには、

「大切な人ほど自由にしてあげなさい。解放してあげない。手放しなさい。」

「もし弟子があなたのことを慕っているならば、いつかきっと帰ってくるから。」

 

なかなか器の大きい人格だと思う。

目上の人からの目下の人への可愛がりや愛情って
時として束縛してしまっていることがある。

「おれがここまで育てたんだから」と自分色に染めたくなる。
助言しすぎたり、干渉しすぎたり、結果窮屈な思いをさせてしまうことも。

親と子の関係にも近いのかもしれない。

だからあえて、弟子のペースに合わせた接し方をしなさい、と。

もし共有した時間のなかに、
恩を感じ、尊敬の念があり、信頼があるならば、
どんな世界へ羽ばたいていっても、きっといつか戻ってくる。

それを信じてじっとこらえて待つことも目上の役割だと。

 

気になって頻繁に連絡したり聞き出そうとして
後輩や年下に煙たがれるよりも、

言いたくなったら言ってくるだろう、
会いたくなったら連絡してくるだろう、
くらいにどっしりかまえておく。

もちろんそうなってくれるように「聞く態勢」をつくっておくことは大切。
連絡しずらいなと思われたら元も子もない。

 

上司と部下、先輩と後輩、年上と年下。

上の方の人が思っている以上に、
下の方の人は距離を感じているもの。

どんだけ近づいても「年齢的・精神的・立場的」距離はある。

だからこそ、囲ってしまうのではなく解放してあげなさいと。

子供の頃を思い返しても誰しもそう思うはず。
押さえつけられるよりも、
自由にさせてもらって、尊重してもらえることが一番うれしい。

そしていつの日か「やりたいようにさせてもらってきた」という感謝が
親孝行へとなっていくのと同じように。

 

大事なものは、たいていめんどくさい

先日のNHKプロフェッショナル 宮崎駿スペシャルにて。

印象的だったシーン。

「面倒くさい」「究極に面倒くさい」とブツブツ言いながら
机に向かって絵コンテを描いている。

そのとき宮崎駿監督は
「面倒くさいっていう自分の気持ちとの戦いなんだよ」と一言。

続けて
「面倒くさかったら、やめればいいのに?」と言われれば
「うるせえな」とか、そういうことになる。

そして核心の言葉へ。
「世の中の大事なものは、たいてい面倒くさい」
「面倒くさくないところで生きていると、面倒くさいのはうらやましいと思うんです。」

 

もうちょっと関連めいたシーンを抜き出すと、こうも言っている。
「やっているときはその意味なんてわからない。」
「意味をわかってやっているわけではない。」

 

つまりは、日々の生活のなかの大切なことは、面倒くさいことが多く、
そのなかには慈しむもの愛おしいものがたくさんつまっている。

そして、そのときにはその意味なんてわからなくても、
匙を投げることなく向き合っていくこと。

面倒くさいことはかけがえのない幸せなこと。
そうやって日々の面倒くさいことに濃厚に生きていく。
その先にその意味がついてくる未来が待っている。

要領よく。 スマートに。 効率的に。 最大効果で。
傷つかずに。 疲れずに。 苦しむことなく。 楽して。
失敗せずに。 損せずに。 etc…

誰もが得てして望まない、出来れば避けたいことだけれど、
でも、それを恐れてばかりいずに、進むしかない。

面倒くさいことが愛おしい。
面倒くさいことが生きている証。

そういうことなのかなあと解釈。

 

最後の宮崎駿監督の言葉もまた勇気づけられる。
「堪る限りの力を尽くして生きる」
「自分たちに与えられた、自分たちの範囲で、自分たちの時代に、堪る限りの力を尽くして生きなさい」

 

自分のなかにいる3人の視点

前職で10年近くひとつの会社に務めていたので、
そこでの上司からの言葉やその姿勢には強烈なインパクトがある。

そしてこれから新しい会社に身を置かないかぎりの間、
自分のなかでその上司たちは強烈な印象を残したままありつづける。

当時もそうだったけれど、

なんでこの上司は今こんなことを言うんだろう?
そこにはどういう意味があるんだろう?
どの視点からどの将来から見てのことだろう?

と、言われた言葉を自分なりに理解しようと吟味していた。

 

同じように、何か自分が迷ったときには、
◯◯さんだったら、◯◯さんの立場だったらどうするだろう?
と視点を置き換えて考えるようにしていた。

「what if~?」
もし自分が◯◯(社長・上司)の立場だったら、
自分はどう考えるだろう? 自分は今何をするだろう?

 

ということで、なにかつまったときには、
過去を懐かしむからではなく、ノートをめくり返したり、
過去言われた言葉や導きを紐解いてみたりする。

そして、
社長だったらどうするかなあ?
Fさんだったらどううまく組み立てるかなあ?
Aさんだったら思いもつかないようなミラクルなことやらかすだろうなあ?

と自問自答しながら、自分のなかにいる3人の視点を呼び起こす。

こうやって自分のなかのかけがえのない上司たちは、
これからも自分のなかで生き続けるのです、勝手に。 苦笑

たまには、
言ってることがわかんない、うっとうしい、言われなくてもわかってる、
とか思いながら。 苦笑