ムズカシイはチャンス

昔、会社の会議で言われたこと。

課題に対して一同に「これをやるのは難しい」と口を揃えていたとき。
社長のひと言が一変させたんですね。

 

「おまえたちが難しいと思っているということは、
ライバルたちもそう思っている。
これは難しい、手間がかかる、と。
ということは、だから誰もやっていないということ。
ここにチャンスがある。
誰もやっていないことを先に実現できれば、それが強みになる。」

 

なるほど!捉え方と発想転換の問題だな、確かに。
と妙に納得したのを覚えています。

難しいと思ったときには、
『ということは、誰もやってない?だから誰もやらない?
だったらできたらすごい!』

とワンクッション思えるかどうかで可能性やチャンスは転がってくる、
ということ。

そういう打破しようとする空気を持つ組織やチームって
ほんとに強いと思いますよね。

本当に難しいこともあります。

でも難しいのニュアンスが、
手間がかかるからという苦労を想定していたら、
時間と情熱さえ費やせば、いつか実を結ぶ可能性が高い、
ということになります。

 

同じことを同じようにやっていても強みにはならない。
強みをつくり出すのは才能や能力だけじゃないですからね。

誰でもできるけどやらないことを遂行できるか、
そこに道が開けるとこもある。
ひたむきな努力と情熱で。

ムズカシイはチャンス。
ふと回想しながら、この言葉をもう一度かみしめてみた次第です。

 

ギャップイヤー

先日ニュースで初めて知った言葉、「ギャップイヤー」。

一言で言うと、人生の寄り道。

 

東京大学や国際教養大学でも制度化されているギャップイヤー。
在学中に、インターンシップやボランティアを行う、国内外問わず。

そうすることでグローバル化、複雑化していく社会に対して、
主体的、能動的、チャレンジ精神のある人材を若いうちから身につけてほしい、と。

一昔前だと、こういう学生は就活で不利になることが多かった。
個性が強すぎるのでは?扱いづらいのでは? などという理由で。

でも、今は「ギャップイヤー」を活用することが武器になりつつある、
ともあった。

さて。
これは学生生活だけの話ではないような。

 

ギャップイヤー。

人生の寄り道、空白の時間、正規のレールからあえて外れる。
これは人生においても同じことなのかもしれません。

もちろん若いうちが、
その吸収力も、そこからの選択肢や可能性も大きい。

大手企業に就職するも数年で辞め、
1/5の給与であってもやりたいことを選ぶ人。

30代から起業しては失敗や挫折をくり返し、60代で成功をつかむ人。

数名でベンチャーを立ち上げ、
2年目の今も給与ゼロ、貯金を食い潰しながら夢に向かう集団。

これも別のニュースでやってました。

 

なにが言いたいのかというと、
いろいろあっていいんじゃないかな、と。人生において。

目的がある、自分を見つめなおすための、
将来を見据えるための、可能性を広げるための、
ギャップイヤー 人生の寄り道 が
あってもいいじゃないかと思うわけです。

そこからまたレールに戻るも、新しいレールに導かれるも、よし。

 

予定調和が一番つまらない。
しかも自分が思ってる予定調和なんて、
あくまでも自分だけが思って信じて疑わない、
これまたなんの保証もない予定調和。

何十年ある人生のなかで、
たかだか1-2年のギャップ(寄り道)で人生なんて決まらないですよね。

 

かくいう自分も、人よりも長い時間大学生活を送って、
やりたいことをやっていた時期があります。

音楽に明け暮れていた、というか。
それも貴重な経験だったし、今に生きているとも思っています。

次のギャップイヤーについても真剣に考えよう。
機が熟した時に。

今がギャップイヤーだったりして!?
うーん、どうなんだろう、得てして寄り道してるつもりはないけれど・・・。

将来振り返ってみたら、わかることですね、それは。

 

TVドラマ「遅咲きのヒマワリ ~ボクの人生、リニューアル」 ナレーション全話

フジテレビ系列TVドラマで2012年10月-12月に放送されたドラマ
『遅咲きのヒマワリ ~ボクの人生、リニューアル』

このたびレンタル開始されたので、再度見なおしてみました。
なんで一度見たドラマをわざわざもう1回見なおしたかって。

内容も確かにまあおもしろかったけれど、
主題歌もMr.Children『常套句』だったけれど、
それよりもナレーションの言葉がずっとひっかかっていたから。

ドラマのストーリーはタイトルにあるように、
20代後半の若者が、それぞれの道を模索していく内容で、
今まで生きてきて自分はまだ花開いたことがない。

つまり、20代後半のこれから遅咲きであっても
花開くことに希望を抱き、という内容。

毎話、エンディングで主人公の語りが入るんですけど、
そのナレーションがとても考えさせられる、ぐっとくる。

詩から切りとったようなシンプルな言葉たち。
少し青臭い感もありますけど描いている世代がそうだから、そこは。

それでも、どの世代にも、いつどんな状況に置かれていても、
ちょっと胸にひっかかってしまうような言葉たちです。

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【第1話】
答えは簡単に見つからない
何のために生きているのか
どこで生きるべきなのか
どこに向かって進めばいいのか
この先には、一体何があるのだろう

【第2話】
過去と向き合わなければ、先には進めない
未来が見えなければ、進む道が見つからない
今、いったい何をやればいいのだろう
先が見えない、今

【第3話】
自分が望む場所にいられるとは限らない
でも誰だってその場所でがんばっている
誰かに認めてもらいたくて
誰かに必要とされたくて
誰かに愛されたくて

【第4話】
誰かを傷つけてしまったり
誰かに傷つけられたり
本当は誰かと深くつながってしたいのに
誰かと深い絆で結ばれていたいのに

【第5話】
少しずつやっていけばいい
自分のいる場所でできることを
少しずつ知っていけばいい
その町のことを 大切に想う人のことを

【第6話】
少しずつ前に進んでいけばいいことはわかっている
でもなかなか前には進めない
いつまでそんな毎日が続くのだろう
悩んだところで答えなんて見つからないことはわかっている
答えがほしいわけじゃない
話を聞いてくれるだけでいい
ただ話を聞いてくれるだけで、前を向くことができる

【第7話】
道はなかなか開かない
どうしたらいいのかわからず
一人でもがきつづけるしかない
でも誰かがそばにいてくれたらから
笑顔になれたり
新たな一歩を踏み出せることが、きっとある

【第8話】
今日という一日が明日につながっていく
今日という一日が終わっていく

【第9話】
いつの間にか出会っているのかもしれない
大切なものや大切な人に

【最終話】
きれいになんて咲かなくていい
もがくばかりで咲けない日があっていい
今いる場所でできることをやってみよう
いつか自分らしく咲ける日が来ることを信じて

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経験のものさし

プロ将棋棋士の羽生善治さんの本にこんなことが書いてあった。

『不調を乗り越えるための「経験のものさし」』
経験のものさしとは、何かをマスターするためにかかった時間の定規。

勉強・語学・受験・スポーツ・楽器・免許・資格・仕事内容など、
「自分は◯◯を習得するのに◯◯時間(日/年etc)かかった」
時間と労力と情熱を注いだらこのくらいのことができるようになった、
という自分自身の学びや経験からくるものさしがある、と。

それがあるから、
何か新しいことにチャレンジしようとしたときに、
何かうまくいかないときに、
その時間や労力や情熱への不安に耐えられるようになる。

「経験のものさし」が焦らずに進んでいくための武器になる。
「経験のものさし」が努力の見込み、
つまり成果が出るようになるまでに必要な努力の量と質を見極める力を自分に与えてくれる。

「経験のものさし」の種類が豊富であればあるほど、
自信をもって進むことができる。

とてもいい導きの言葉だと思う。

 

誰しも生きてきた年数と時間だけ、経験してきた量と質だけ、
「経験のものさし」が蓄積されている。
ない人は、いない。

年齢を重ねるごとに、これを磨くことによって、
瞬間的な焦りや不安は払拭できていく、
ようになるんだと思う。

自分に置き換えてもそうだし、
周りの若い人を見渡してもそうかもしれないが
若い頃に一見安易な無謀な目標を立てたり、
焦りや不安が多く悩んでしまうのは、
この「経験のものさし」を持ち合わせていないか、まだ少ないか。

もし、自分の経験のものさしがわからない、という人は、
生まれてからこれまでの、自分年表をおさらいしてみる。

今◯◯が当たり前のようにできるのも、
今◯◯をした経験が生きているのも、
こんなことではへこたれないよ、◯◯に比べたら・・・と思えるのも、

自分年表を紐解いたなかに、
その“◯◯”という「経験のものさし」があったから。

何か長期的な目標を立てようとしたとき、
今やっていることが途方もない過程なとき、
「いやいや、◯◯もこれだけの時間がかかったじゃないか!」
何事もすぐに成果を出せてしまう特効薬なんてない。

 

こういう手法と考え方をうまく使って、

自分に自信をつけることができる
自分を承認することができる
今立ちはだかる壁に立ち向かおうとすることができる
他人が壁に当たっているときに、自分の「経験のものさし」から理解してあげることができる
他人が壁に当たっているときに、自分の「経験のものさし」の体験談により励ますことができる

などなど。

種類も長さも豊富な、
自分ならではの「経験のものさし」をつくっていこう。

 

情報メタボ

情報が溢れる現代社会。
情報メタボにはなりたくない、というお話。

日常生活において、過度の必要以上の食料栄養分をとれば
メタボとなってしまいます。

自分の意思と関係なく食べないといけない機会もあるでしょう。
つい今日は食べ過ぎてしまった。勧められたから。飲み会だったから。
いらないんだけど、そこまで欲してしない自分がいるんだけど、
なぜか口に運んでしまう。

もしくは、
自分のキャパや体の許容範囲をわかっていない、なんて場合もある。

わかってはいるんだけれど、蓄積される一方で、発散できていない、
なんて場合も。

その結果がメタボ。

 

情報も同じです。
与えられる、勝手に入ってきてしまう、すぐ手に取れてしまう、
そんな情報をつまみ食いばっかりしていたら・・・?

今必要じゃないんだけど、いつか必要になるかも、蓄積。
頭のキャパを超えそうなんだけど、蓄積。
そもそも情報なんて多いなら多いに越したことはない、蓄積。

そして、使いたい時に使えなくなる、身動きができないくらい重くなる、
キャパオーバー。

その結果が情報メタボ。

 

だから、インプットとアウトプットの話。

食べ物も、生きるために必要。
つまり、エネルギーとして発散するというアウトプットのために、
食べるというインプット。
アウトプットを前提としたインプット、なわけです。本来は。

情報も、何かに使うために必要。
つまり、何かに使う想定というアウトプットのために、
情報を得るというインプット。
アウトプットを前提としたインプット、なわけです。こちらも。

なかなかわかりやすい、メタボつながりではないですか?
(と自分は思っている)

 

極論ですよ。
カラカラに喉が渇いた時の、目の前に見つけた水1杯の喜び。
それを飲んだ時の快感。
これ状況的にも、いつもの水とは違いますよね。

その水1杯だけで、どれだけのエネルギーになりますか、体も心も。

情報も同じです。
欲していた情報に出会えたときの喜び。
それを吸収したときの快感。

その情報1つだけで、どれだけの効果的なアウトプットができることか。

 

食べ物も情報も、そこに価値を与えるのは自分自身、
ということになりますね。

タダの水でも、高級料理でも、その時に美味しいと至福を味わうのも、
無料の情報でも、高額な情報でも、
その時に知ってよかったと至福を味わうのも、
その時の自分自身の体と心の状態に左右されてしまう、ということ。

もし、食べ物も情報も浴びるように摂取したときには、
とりあえず、まずはそれをエネルギーとして発散させるとことから。

そうやって自分の体も頭も心も、
どのくらいが健康状態なのかを知っていく。

情報計とかあったらおもしろいのに。
あっ、体重計で自分の体重を量るのに、かけてるだけです。はい。

常に空腹なくらいがちょうどいい。
常に食べる時は腹八分くらいがちょうどいい。

これってフットワークを軽くしたり、
いつもいい意味で「余白」をつくっておく、ということ。

くどいですが!

情報も同じですね。

もうこれ以上は、置き換えて書きません。
文字数メタボになっちゃいますからーっ、残念。